断腸亭料理日記2010

麻布谷町界隈 その2

みぞれ交じりの、赤坂アークヒルズ、麻布谷町付近探訪。
昨日は、泉ガーデン裏の通りを歩き、霊南坂上、アメリカ大使館の
角、まできたところ。









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2月13日(土)

坂を降りようとする、と、そこに立っていた、
お巡りさんに止められた。

先ほどみたように、この霊南坂の左側が元の伊藤博文邸で、
今のアメリカ大使館の一画。

テロ警戒で、といわれたが、
まったく、なにも書かれていない、のに、、。
いつもそうなのであろうか。

迂回しろ、か!?。

どこを迂回しろ、と、いうのか。。
ここを降りたかったのだが。

こんな土曜日の凍えるような、みぞれ交じりの日に、
人通りもないこんなところを、ノコノコと歩いていて、
不審な奴、か、、。


(ちなみに、百恵ちゃんの結婚式で、我々世代には
有名な、霊南坂教会はこの交差点を左、東へ曲がった
左側。また、霊南坂という名前は、江戸初期、慶長年間、
家康・秀忠とも近く、高輪の東禅寺を開いた、嶺南崇六という
臨済宗の坊さんの庵があったから、という。)

しかたない。
右に曲がり、左側、すぐにオークラの本館。
ホテルの中を抜けて、坂下までいこうか。

さすがに、ホテルに入るのには、止められない。
いらっしゃいませ、とまで、いってくれる。

ロビーに入ると、外の寒さと打って変わって、
温かい。

また、うろうろしていると、怪しまれるか。
立っている、お姐さんに聞いてみる。
虎ノ門方面は?

エレベーターで下へ、とのことで、
一階降りる。

正面玄関は先ほどのところ、で、あるが、
なるほど、思った通り、こちら側にも出入り口がある。

オークラを出る。

この前の道は右側に向かって、下がっている
ゆるい坂だが、汐見坂、と、いう。
汐見坂という坂の名前は、そこいらじゅうにあるが、
ここから真っ直ぐ江戸湾まで線を引くと、愛宕下、
新橋、汐留を抜け、ちょうど浜離宮にぶつかる。
むろんのこと、今は見えない。

左に曲がる。

信号があって、アメリカ大使館の門。
これが正門であったか。

昔、学生の頃、今はそんなことはないが、
渡米をするには、ビザが必要で、きたことが
あったくらいで、それ以来、縁はない。

また、お巡りさんがいるので、止められるのも
業腹なので、さっさと、歩く。

このアメリカ大使館前の通りが、榎坂。
今は、坂、といえるほどの坂には見えない。
明治になり溜池榎坂町と、町名にもなっている。

江戸の頃の地図を見ていただきたい。
今の六本木通りから、この榎坂と、左(西)に同じように
斜めの道があり、向う側は多少の武家屋敷があり、
すぐに溜池になっている。
江戸開府当初、溜池はここまできており、
この二本の通りは、堤であったようである。
この堤に榎の木が植わっており、
それが榎坂の名の由来のようである。

真っ直ぐいって、六本木通りに出る。
左に折れて、アークヒルズまでくる。
コーヒーを飲んで一服。

まだ、時間があるので、今度は、六本木通りの反対側、
氷川神社の方まで、歩いてみよう。

再び傘をさして、歩きだす。
ご存じの通り、上には首都高が走っているので、
向う側に渡るのは、二股にある大きな歩道橋だけである。

この歩道橋を渡る。

右に曲がり、すぐの路地を左に入る。
と、正面に、久國神社。

これは江戸の地図にもある。
歴史はありそう。

石段をあがると、右側に小さな本殿。
赤い幟が立っており、お稲荷さんのよう。
神主さんの住居なのか、木造家屋と社殿と一体になっている。
(社殿の額は、勝海舟の揮毫とのこと。)

境内から氷川神社の方に、抜けられるのかと思ったら、
すぐに崖で、だめ。

再び路地に戻り左にまがる。

細い路地は、さらに左へ回り込み、細い急坂になる。
これは崖をのぼっているよう。
標識が出ており、この坂は、南部坂。

上の江戸の地図には出ていないので、
江戸も初期の頃、なのであろう、
南部藩の屋敷があったので、この名前だそうな。

左側、崖の上が、例のアメリカ大使館の広大な宿舎。

この標識にも出ているが、南部坂といえば、
忠臣蔵、南部坂雪の別れ、が有名とのこと。

(これは完全に、余談だが、書いておく。
実際のところ、歌舞伎芝居の、南部坂雪の別れ、は、
私は観たことはない。

これは、忠臣蔵でも、元祖忠臣蔵の、
仮名手本忠臣蔵、ではなく、昭和9年に初演されている、
元禄忠臣蔵という、別の演目。近年も上演されており、
映画などにもなっている。

また、この場面は、大河ドラマなどでも多く扱われているので、
私も視たことはあると、いってよかろう。

討ち入りの直前、内蔵助が、亡き浅野内匠頭の奥方、瑤泉院
のもとへ、別れを告げにくる。ここで、内蔵助は、
討ち入りのことを打ち明けられず、不忠な奴、と、瑤泉院に
罵られる。内蔵助は、お別れに、と、自分の詠んだ歌、といって、
巻物を残していく。内蔵助が出た後、この巻物が、四十七士の
血判状であることが分かり、瑤泉院は、追いかけ、南部坂雪の別れ、
に、なる。
むろん、フィクションであろうが、瑤泉院の生家、
三次(みよし)浅野家の下屋敷がこのあたりにあったようで、
この南部坂を舞台にしたとのこと。)

どうでもよいが、この急坂では雪が降れば、滑りそうである。
(江戸の地図では、段々が書かれているので、
石段があったのであろう。)

坂をあがると、米国大使館宿舎の門が角、
右の角には、洋食やの津つ井、が、ある。
四つ角になっており、左に曲がる。
閑静なところで、マンションやら邸宅が並んでいる。

まだ、ここも坂。

右側に氷川神社の森が見えてくる。

正面まできて、人影のない境内に入ってみる。
木が生い茂り、雨で薄暗い。

瘤のたくさんある大きな木が見える。
なんの木だろうか。葉を落としているので、わからない。

境内はむろん、舗装されているわけではないので、
雨で土がぬかるんでいる。足元に気をつけて、
近寄ってみる。銀杏の大木。それも境内にはなん本かある。

東京には、ほんとうに、こういう古木が少ない。
むろん、震災、戦災のため、で、ある。
赤坂も戦災には遭っており、きっと、この木も、焼け残った
のであろう。
(社殿も昭和4年の建築のようで、焼けなかったのか。)

おっと、そろそろ、時間である。
同じ道を引き返し、南部坂を降り、
歩道橋を渡り返し、アークヒルズのパーティー会場へ。

しかし、この界隈も、念入りに調べて歩くと、
江戸期、明治期、と、まあ、私が知らなかっただけ、
ということであるのだが、色んなものが出てくる。
おもしろいもの、で、ある。

私のオフィスのある市谷界隈も山手のお屋敷町、ではあるが、
この界隈、赤坂、麻布、界隈は、格が違う。
これはひとえに、明治以降のことであろう。
そして時代的には後、で、あろうが、
米国を筆頭にした、大使館の集中地。
ぶらぶらしがいがある、というもの。

そして、やっぱり、数ある坂。
普段、市谷で仕事をしているので、
坂の多さは、むろん普通のこと、ではある。
しかし、改めて、東京の坂の多さが思い知らせた。

といったところで、雨の麻布谷町界隈散策、
一巻の読み切り、で、ある。


(なのだが、ひょっとすると、つづく、かも?。)



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