断腸亭料理日記2010

押上、東京スカイツリー、、

界隈のこと。その1

3月20日(土)

さてさて。

引続き、土曜。

待乳山聖天にできていた、池波先生、生誕の地の碑、を
確認してから、桜橋を渡って、向島側を自転車で走って、
墨田区役所まできた。

さて。

どうしようか。

ここまできたら、スカイツリーが建設中の
押上までいってみようか。

以前は、葛飾の四つ木に住んでいたので、
押上、というのは、都心への通り道で、車でも、
よく通っていたところ。

10年前に浅草に引っ越してから、まあ、
そうはこなくなっていた。

墨田区役所、アサヒビールの脇。
吾妻橋の東詰を左に曲がり、真っ直ぐに行くと、
浅草通りに出る。

浅草通りは、上野から浅草まで、江戸の頃は
新寺町通り、などと呼ばれ、また、銀座線が下を走る、大通り。

だけ、かと思うと、駒形橋を渡った、墨田区側も
この呼び名は続いている。

浅草通りを左に曲がり、真っ直ぐ。
三つ目通りとの交差点。

三つ目通りは、このすぐ北で、言問通りとぶつかり、
水戸街道になる。

吾妻橋を渡ったこちら側は墨田区だが、このあたりは
やはり、本所と、いった方がぴったりくる。
この三つ目通りと浅草通りの交差点は、都営浅草線の
駅で、駅名は本所吾妻橋。

本所は、ホンジョ、というのが普通だが、
古くはホンジョウ、と発音していた。

本所(ホンジョウ)に蚊がなくなって大晦日

という古い川柳がある。

意味は、本所というところは、堀川が多く、また、大水なども多く、
蚊が沢山いた。それで、真冬、大晦日になってやっと蚊がいなくなった。
蚊がいなくなったと思ったら、大晦日だった。そんな感じであろう。

これなどホンジョでは、字足らずになってしまう。
やはり、ホンジョウと発音してぴったりくる。

本所の地理、通りを理解するには、先の三つ目通りだの
四つ目通りを理解しなければならない。

京都などと同様に、本所の道は、ほぼ完全な碁盤の目になっている。
そのうちの南北に走るメインの通りがこの三つ目だの四つ目の通り。

三つ目、四つ目などは、もともとは、本所南部に東西に流れる、
竪川(立川)の橋の名前からきている。

隅田川から数えて、一つ目、二つ目、三っつ目の橋の通り、
であるところから、南北に走るこれらの通りには、
この名前が付いている。
まあ、単純といえば単純、わかりやすい。

鬼平ファンの方々にはお馴染みだが、軍鶏鍋の五鉄は、
本所二つ目、隅田川から二つ目の橋の袂、ということになっている。

しかし、実際には一つ目通りというのはない。
これは、橋も通りもあるが、
呼ばれていないといった方が正しいか。

二つ目通りは、この通り沿い、深川にある清澄庭園から、
今は、清澄通りと呼ばれている。
また橋の名前も、今は、二つ目橋、三つ目橋ではなく、
一之橋、二之橋、三之橋、と、なっている。
(東京では、一之橋、二之橋、というと、麻布の方が一般には
知られているかもしれないが。)

現代は、橋の数は増えており、隅田川からの
順番ではなくなっている。

また通りと駅の関係。
これなども知っていると、便利である。
先の三つ目通りが本所吾妻橋。
あるいは、都営新宿線では、二つ目(清澄通り)が森下、
三つ目が菊川、四つ目が住吉、さらに、四つ目は、北へ上がると、
錦糸町、さらに押上になる。

と、今日は、その本所北部になるが、江戸の地図を出してみよう。


これは本所向島の切絵図。江戸の頃の区分図、で、ある。


より大きな地図で 断腸亭料理日記/押上・業平橋 を表示

ついでに、現代の地図も出してみる。
見ておわかりであろうが、このあたりの江戸の地図は、
縮尺、位置関係が、そうとうにいい加減。

とくに、北十間川の北側、向島、小梅といったあたりの
位置関係が、実際とは随分違っている。

まあ、このあたりは、見てお分かりの通り、
既に郊外で、あるのは田畑で農家がちらほら。
感覚的には、こんなものであったのかもしれない。

ただし、現代の地図に印を付けたが、
寺や神社はあまりかわっていない。

隅田川から北十間川の一つ目の橋。
枕橋の北の袂、(昨日配信分にあった)
今は、公園になっているところ。
実際の区画とすれば、もっと広かったが、
これが水戸藩下屋敷。

この地域の名前が、小梅、小梅村であったで、
小梅の水戸様、などと呼ばれていたようである。

小梅の水戸様は落語にも出てきていた。
人情噺だが、文七元結。

手代の文七が紙入れを忘れてくるのが、
小梅の水戸様であった。
左官の長兵衛の長屋が吾妻橋を渡ってすぐの、本所達磨横町。
文七の身投げを助けるのが吾妻橋ということで、
忘れ物をするのは、小梅の水戸様が適当だったのであろう。

また、江戸の地図で、おもしろいのは、料亭が
なん軒か書き込まれていること。
北十間川のすぐ北、業平橋そばに、絵入りで小倉庵、というのが
見えるが、これも著名な料亭。

さらに北の方に、大七、あるいは武蔵屋というのが読める。
鬼平などにも向島の料亭はよく出てくるが、
当時、このあたりの料亭は江戸でも名代。
(明治以降の向島花柳界の元といってよいのだろう。)
それこそ、大田南畝先生、
落語の元祖烏亭焉馬といった文化人から、
大身旗本などまで御用達。
うろ覚えだが、確か、勝海舟などは
武蔵屋が贔屓ではなかったか。


と、いったところで、またまた、
二週にまたがるが、つづきは日曜日。








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