断腸亭料理日記2011

談志がシンダ。8

〜落語とはなにか?明治以降の落語

引き続き、落語とはなにか?を考えている。

前回、明治以降の落語、あるいは、
歌舞伎などを含めてもよいと思われるが、
時代が変わっても、滅びたわけではなかったということを書いた。

これは、文化文政期を中心とする江戸時代後期の江戸町民文化、
=江戸町民の人生観、は明治以降も、急激に変わって
いったわけではなかったということだろう。

ある種の二重構造というのか、表面は文明開化でも
一皮むけば、東京に住んでいる大半の普通の人々は、
江戸からさほど変わらぬ日常を送っており、その人生観も
そう急には変わらなかったといってよかろう。

それはそうであろう。
鉄道が通ったといっても、今と比べれば、皆がみんな
気楽に東京から大阪へ行けたわけではないし、幹線からちょっと
外れたところは、まだまだ、草鞋履きで
徒歩で旅をしていたわけである。

東京の庶民は、江戸時代から比べれば、多少の入れ替わりはあっても、
多くの江戸人がそのまま住んでいたのであろうし、
急には変わりようがない。

当時の東京での娯楽は、講談、娘義太夫など
時々で人気のものはあったようだが、
やはり江戸から続いていた落語は定番のもの。
地方から出てきた薩長人である官吏などにしても、
帝大出の知識階級にしても、休みの日には寄席へ行き、
江戸人からの人生観の流れる落語を聞いていた。

上からは 明治などとはいうけれど
オサマルメイ と下からは詠む

なんという言葉もあった。

しかし、そうはいっても、時代はやはり
それなりに変わっていたことも確かである。

明治初期の東京の芸者のこと。

江戸から続く芸者町の柳橋。江戸っ子の意気を
売り物にする彼女達からは、明治政府の役人などは
まったくモテなかった。
それで、新橋(今の銀座)の花柳界ができ、
そこには名古屋など、地方出身の芸者が多かったというが、
瞬く間に東京一の花街になった。

やはり、東京には、この頃は、江戸からの庶民と
地方出身者の二重構造というのか、棲み分けというのか、
そんなものが生まれているのだろう。

旧幕時代に比べれば、それでも薩長はじめ地方の人々の
東京への流入量は比べものにならなかろうし、かつ、
それらの人々が、為政者で権力を持っていたということ。
ある意味、今はもう死語の、江戸っ子という言葉。
俺達は田舎者とは違うんだ、というのを主張する、というのが
より必要になったこともあったのであろう。

こんなことで、急には変わらぬが、徐々に
確実に江戸の頃とは違った様相が広がっていったのであろう。

明治から大正と時代が進んでいくと、
落語でも、江戸人の人生観だけの噺ばかりではなくなり、
地方出身の官吏などを登場人物にした噺なども登場し、
少しずつ変わっていったことも確かではある。

文楽師匠の音で、かんしゃく、というレアな噺がある。

小学館の全集に入っているので聞いたのだが、これは、
明治が舞台と思われ、そこそこ偉い役人のような男が主人公。

その男が、運転手付きの自動車で
女中やら書生やらがいる自宅に帰ってきて、
掃除が行き届いていないなどなど、端から
家の者に当たり散らす。それで、奥さんは、我慢ができず、
離縁をしてくれと、言い出し、里へ帰ってしまう。

里へ帰ると、父親に、それはお前の働きがわるいからだ、
自分から出てくるのはなんたること、女中やら、
書生やらがいるのだから、うまく使えば、
小言をもらうことはないと、諭(さと)し家へ帰す。

で、家に帰り、言われた通り、小言をもらいそうなことを
ことごとく先回りし、準備をして帰りを待つ。

と、主人が帰ってきて、すべて思う通りになっており、
今度は、これじゃあ、わしが小言がいえんじゃないか、と
怒鳴り、下げ。

こんな噺。

たいしておもしろくもないし、まあ、
むろんのこと、今には残ってもいない。

当時(明治)の新作なのであろう。

妻は夫に従うもの。
あるいは、内助の功、そんな価値観か。

これは、落語の価値観ではない。
内儀(かみ)さんは、連れ合いのいうことを
はいはい、とは聞かないし、小利口にこんな真似はしない。
(だから、芝浜で家元は、かわいい内儀さんに変えた
のである。)
それが落語である。

当時の知識階級、支配者階級、山の手の人?の、
価値観なのであろうし、先日書いた“落語の範囲”に
入ってもいないといってよかろう。
こんなものは、残らないのは当然である。

さてさて。

ここまで見てきて、対立軸が出てきている。

江戸と明治以降。
東京と地方。
下町と山手。
江戸っ子と田舎者。

まあ、あたり前といえばあたり前の軸だろう。

ここで、もう一つ、江戸っ子も、
もう一度見ておかなければいけない。

この対立軸の中で、江戸っ子というのは
必要以上に、強調されてきた歴史がある。

先の、柳橋の姐さん達ではないが、明治以降
江戸期と比べて入ってきた、地方出身の人々に対し、
自分達を主張しなければならなかったわけだが、
それが逆に、ステレオタイプの『江戸っ子』、を
作り上げてもきた。

毎度書いているが、池波正太郎先生は浅草の生まれ育ちで
一般的には、江戸っ子と、いえるのだが、
この『江戸っ子』という言葉が大嫌いであった。
自らは絶対に使わず、代わりに、江戸人、東京人という
言葉を使っていた。

落語でいえば『江戸っ子』は、
「大工調べ」の棟梁が代表格であろうか。
喧嘩っ早くて、跳ねっ返り。

公平に見て、東京(下町)人にこういう性癖が
皆無かといえば、まあ、ゼロではないだろう。
かくいう、池波先生も、30代まではそうとうに
喧嘩っ早かったという。

しかし、皆、いつも、こんなものかといえば、
そんなはずはなく、だれもが普通に社会生活を
送っているのだから、年がら年中、巻き舌で
まくし立てているわけではない。
むろん、普通の常識人である。
(池波先生は、代わりに東京人の本質は“真摯”である、
ということをいっている。)

江戸人、東京人がカリカチュアされた
キャラクターとしての『江戸っ子』に
仕立て上げられ、逆に価値を下げていったという
側面も指摘しておきたい。



つづく。




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