断腸亭料理日記2011

上野の山 その1


さて。

今日は、中止になってしまった3月の『講座』のこと。
鶯谷駅集合で、上野の松坂屋裏の、蓬莱屋

でとんかつ、と、いうことであった。

お詳しい方は、蓬莱屋?
と、思われるかもしれぬ。
そう、池波先生の上野でのとんかつやは、
蓬莱屋ではなく、本家ぽん多

しかし、残念ながら、本家ぽん多は、席数が少ない。
だが、やはり、池波先生ととんかつは、
切っても切れない。

目黒とんきをはじめ、いきつけのとんかつやは、
随分とある。
店で食べて、オミヤにも包んでもらい、
翌日また食べる、という。
まあ、そうとうな好物、と、いっても間違いではなかろう。

そう、基本的に、池波先生は、
油ものが大好きであったのである。
その上、酒も好き。よって、痛風に苦しめられた。

考えれば、潔(いさぎよ)いかもしれぬ。

これを以ってしても、グルメではなかろう。
まさに、食いしん坊。

しかし、これでいいのである。
食いたいものを食って、呑みたいものを呑んで、
寝て、働いて。

池波先生自らも書かれているが、
人の一生、そんなもの。

そういう一生が送れれば、御の字、
なのかもしれぬ。

ともあれ。

とんかつやは、1回は入れなければいけないし、
蓬莱屋でも、次善というのは失礼だが、
十二分にうまいし、こちらは、小津安二郎監督のいきつけ。
と、いうことで蓬莱屋、にしたのである。

前置きが長くなってしまった。

今日は、上野のことを、少し書いてみたかったのである。

上野と一口にいっても、色々あるが、
鶯谷から、上野というと、上野の山を歩く、
と、いうことになる。

当初は、鶯谷、先日書いた、豆腐料理の笹乃雪の
根岸も範囲に入れていた、のであるが、
さすがに、歩く距離が、長かろうと、やめて、
いわば、北の端から、上野の山を縦断しよう、
という、コース、で、ある。

そこで、上野の山、といえば、皆さん、思い浮かべるのは、
なんであろうか。

西郷さんの銅像。

パンダがきた、動物園。

まあ、このあたりが、一般的であろう。

それ以外ならば、美術ファンならば、国立博物館、
あるいは、西洋美術館。

または、芸大。

あるいは、季節柄、花見、というのも
一般的ではあろう。

まあ、上野の山は、こんなところ。

しかし、東京で育った、私の親の世代、あるいは、
祖父母世代であれば、上野のといえば、寛永寺だし、
彰義隊。

これは、東京人とすれば、あたり前のことで
あった。

今回、上野の山を、ある程度きちんと調べてみて、
やはり、このあたりに、行き着かざるを得なかった、
のであった。

江戸の頃も、東京になってからも、
日本という国の有様を象徴する舞台であったのが
上野の山、であった。のである

江戸の頃は、上野の山は、全山が、東叡山寛永寺。
町人にとっては、花見の場ではあったが、
天皇の皇子、輪王寺の宮一品法親王(いっぽんほうしんのう)のおわす、
宗教界のトップであり、江戸幕府の祈願寺。

京都の比叡山延暦寺に対し、東叡山寛永寺。
(むろんどちらも、天台宗で、延暦寺は、天皇家、
この国の祈願寺、であった。)

琵琶湖に対し、不忍池。竹生島から勧請した、弁天堂。
京都の清水寺から、やはり勧請した清水観音堂。
その他、様々なものを、京都から持ってきている。

そして、将軍の霊廟、御霊屋(おたまや)も
寛永寺にはある。
葬られているのは、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、
11代家斉、13代家定。6人もいる。
(だが、今回調べてわかったのだが、
寛永寺にはこのように、将軍の御霊屋はあるが、
あくまでも徳川将軍家の菩提寺は、浄土宗の増上寺で、
寛永寺の立場は、祈願寺であった。)

実質的にも、象徴的にも、江戸城同様、と、いうのか、
もう一つの江戸城、というのか、江戸幕府そのもの
で、あったといってもよいかもしれない。

それで、幕府瓦解で、あきらめきれない幕臣達は、
無理は承知で、上野の山に籠って、戦った。
そして、むろん、敗北をした。

その後の明治新政府が、上野の山にしたこと。

それは、そんな江戸城以上に、江戸幕府にとって、
シンボリックな意味のあった、上野の山を、徹底的に、
変えて、新しい時代がきたことを
見せつける場にしたのであった。

一つは、全山寛永寺であったところを、どうであろうか、
おそらく1/10くらいにしてしまったこと。

今の、寛永寺の本堂(根本中堂)というのは、
ほとんどの人が、どこにあるのかすら、知らないであろう。
(私も知らなかった。)見る影もない。
江戸の頃の根本中堂は、今の広大な噴水広場すべて、
で、あったのである。

その代りに明治新政府は、この山で、大々的に博覧会を催し、
各国の公使など、賓客を招き、
鹿鳴館以前のレセプション会場であったのが、精養軒。
そして、その博覧会の跡が、国立博物館であり、動物園。

そして、長い間、上野東照宮は、
重要文化財でありながら、荒れ果てた姿をさらしていた。
(今、やっと、というべきか、修復に入っている。)

そんなことで、上野の山は、とても、政治的な場所、
で、あったのである。

江戸から明治への、東京という街の変化を
まさに体現してきたところ、と、いってよかろう。

江戸人にとっての明治は、なんだったのか、
あるいは、そもそも、明治という時代とは
日本人にとって、なんだったのか。

このへんが、少し前からの私のテーマになりつつ
あったが、これを考えるにも、上野の山は、
たぶんに、シンボリックな存在である。



長くなった。
このこと、明日、もう少し、続けたい。








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