断腸亭料理日記2011

池波正太郎と下町歩き 9月

その7

9月17日(土)

9月の『講座』人形町に、もうしばらくの

お付き合いを。






昨日は、今の人形町三丁目の路地は二百年間、江戸三座の内の二つ、
中村座と市村座があり、芝居町であったことなどを
書いた。

この頃の歌舞伎歴史など、触れたいが、長くなるので
やめるとするが、今回の新ネタとして、劇場経営について、
少しだけ書いてみる。

初代團十郎の出た元禄期、それから、十八大通など、
金持ちの通人が闊歩した田沼時代の宝暦期、など、
黄金期を経て、歌舞伎は江戸庶民の間、隅々まで浸透し、
その人気は絶大なものがあったのは、ご存知の通り。

が、しかし、意外に知られていないことかもしれぬが、
劇場経営は人気ほどうまくいっていなかった。

一つには劇場に関係する人員が膨大であったこと。
明和頃の中村座で役者76名、裏方がなんと263名、
作者囃子など31名、芝居茶屋大小23軒。

さらに、役者の出演料の高騰である。
千両役者という言葉があるが、これはあながち誇張ではなく、
歌舞伎人気とともに引く手あまたとなった役者の出演料は
一興行、千両を越えることも実際に珍しくなかったという。

これにともなって、観覧料も値上がりしていった。
江戸初期の阿国歌舞伎では二十文であったというが、
徐々に江戸では高騰し、文化の頃には一日の芝居見物で、
飲食費など茶屋の費用を含めて
「金一両二分よりは安く出来ざるなり。米三俵余りに当たるなり」
などと言われており、これが観客数の減少につながる原因にもなった、
と、いうのである。

一両二分、米三表、というと、どのくらいであろうか。

ざっくり、6万円くらいか。
ちょうど、吉原の最高位の太夫の揚げ代が、同じくらい。
(もっとも、吉原の方は、それ以外に祝儀その他、
もっとかかったが。)

これに加え、当時の火災の多さもあり、延焼した場合の
小屋の再建費用などがかさみ、資金難から度々休座に
追い込まれることにもなっていたのである。

人気はあったが、劇場はあまり儲からなかった、
と、いうことのようである。
(儲かったのは、役者?。)

そんな堺町、葺屋町の芝居町は、幕末もほど近い
天保の頃、浅草移転、となる。

200年間の歌舞伎黄金時代中にもたびたび幕府の
弾圧は、風俗取締りと防火の観点から行なわれていた。

例えば、灯火の使用を控えるため、
当時の芝居は昼のみの興行であった。

1841年(天保12年)、中村座の楽屋から出火し、
葺屋町など芝居町をはじめ近隣の数町に延焼した。
これが時の老中水野忠邦が、歌舞伎改革に向かわせる動機となった。
水野は町奉行遠山影元に移転か廃止を諮問した。

遠山は抵抗を試みたがついには押し切られ、
1842年(天保13年)中村座、市村座が、
翌年木挽町河原崎座(森田座控櫓)も、浅草聖天町西に
新たに土地を与えられ、猿若町と命名された町へ移転し、
明治初年まで同地が芝居町となった。

名奉行遠山の金さん。
このことがあり、江戸、その後の東京芸能界の
遠山人気が生まれ、名奉行金さん作品が作られた、
ともいわれている。

さて。

今度は、人形町通りを渡って、向こう側。
元吉原のこと。

こんなものがある。

『 そもそも。権現様ご入国の時代(じぶん)にゃァ、

江戸に湯女(ゆな)てぇのが、京都の六条河原から来たのが

麹町の八丁目に十四、五軒と駿府の弥勒町から来たのが、

鎌倉河岸に十五、六軒、江戸土着のものが大橋(おおはし)、

つったって手前(てめ)えにゃァ判るめえ、今の常盤橋のこった。

あの辺に二十軒ばかりあったんだが江戸市中にそういった

妓楼(もの)を置いといたんじゃァ、風紀上よろしくねえってんで、

慶長十七年に相州小田原の住人で、庄司甚右衛門(しょうじじんえもん)、

通称庄司甚内(じんない)という人が願い人総代となって

公儀に申し出て、初めて廓が許されて、元和三年の春に

葺屋町に二町四面の土地をもらって始めたんだが、

あの辺は一面に葦(よし)の生えた原だ。

葦の上に出来た原だから、“葦原(よしわら)”と

名が付いたのを、縁起商売だから、字を“吉原(きつげん)”

と改めて“吉原(よしわら)”だ。

それから四十年たった明暦の二年に浅草田圃(たんぼ)に

引き移りを命じられた。

 葺屋町からあんな辺鄙(へんぴ)な土地ィ行くんだから

てってんで、土地を五割方増してもらって、

翌明暦三年の八月の十四日に始まって今日に至るのが

“新吉原“ってんだ、覚えとけ!。・・・』

これ、なんだかお分かりであろうか。

落語ファンの方なら、ひょっとすると聞いたことが
あるかもしれぬ。
そう。落語『五人廻し』の一節。

噺は、同じ花魁の客五人。いわゆる“廻し”というやつである。
そのうちの4人が皆、待てど暮らせど花魁は来ない。
で、それぞれの客が、店の若い衆に文句をいうのだが、その一人が、
いうセリフ、で、ある。

この元吉原の曰く因縁、調べてみると、
詳細はいろいろあるが、中央区史で、
少し調べてみたが、大筋ではほとんどこの通り。

中央区史の執筆者が『五人廻し』から書いた、
のかもしれぬが、とにもかくにも、落語とは、まったく、
たいしたもんである。

だが、そうなのである。
人形町には、遊郭吉原は、江戸初期のたった、
40年しかなかったのである。

歌舞伎が200年ここにあったのに対し、
遊郭の方は、浅草千束にあった期間の方が、
圧倒的に江戸期においても、長かったのである。



と、いうことで、つづきはまた明日。
明日は、芸者さんの街、人形町のことあたり。



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『池波正太郎と下町歩き』の後期、募集中です。

是非!

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