断腸亭料理日記2015

歌舞伎座三月大歌舞伎・
菅原伝授手習鑑 その2

3月21日(土)

引き続き「菅原伝授手習鑑」の通し。

〜〜
いつも歌舞伎見物のことをここに書く場合、あら筋は
できるだけ書かないようにしてきたのであるが、
読者諸兄は、必ずしも歌舞伎をご覧になる方ではないと
思われ、特に今回のようにあまり上演されない演目であれば、
書く意味もあろうと、今回は筋も含めて書いてみたい。
〜〜

序幕の、加茂堤。

原作の人形浄瑠璃ではこの前に発端として、大序と大内の段
というのがあるようである。

だが長いこの物語を語り始めるのにはこの加茂堤は
最低でも不可欠であろう。

ご存知の右大臣菅原道真(菅丞相・かんじょうしょう)が主人公で
これにライバルの左大臣藤原時平(しへい)、時の帝(みかど)の弟である
斎世(ときよ)親王が関わっているという構図が基本にある。
(丞相というのは大臣の別称。)

これに梅王丸、松王丸、桜丸の三つ子の兄弟が登場する。
この三人は菅丞相の領地の佐多村というところにある
別邸の管理人をしていた四朗九郎という者の子供。

この三人がなぜか、梅王丸は父親の主人の菅丞相の、松王丸は
藤原時平の、桜丸が斎世親王に、分かれて仕える。
これがこの物語の設定の妙であろう。

時平は帝の信任のあつい菅丞相を蹴落としたい。

とまあ、こういったあたりが背景。

そして序幕の加茂堤では桜丸と桜丸の妻の八重が
斎世親王と恋中(こいなか)の菅丞相の娘の苅屋姫の仲を
取り持つ。

桜丸は菊之助。まだ若い美男子という設定であるが、
これが色男の菊之助には実に合っている。

斎世親王も苅屋姫はまだ10代。

若い夫婦がもっと若い初々しい二人の逢引に手を貸すという
なかなか微笑ましい場面。

しかし、これがこの物語のすべての始まり。
菅丞相を追い落としたい藤原時平は、菅丞相が娘を斎世親王へ
近付けて、政権を狙おうという野心あるということにして、
謀反人として捕り手を差し向ける。

桜丸は斎世親王を守って戦うが、戦っている間に、
斎世親王と苅屋姫はどこかへ逃げてしまう。

と、ここまでが序幕の加茂堤。

豊国画 寛政8年 (1796年)江戸・都座
桜丸 二代目中村野塩 八重 初代岩井粂三郎
(都座は中村座の控え櫓)

なぜ菅丞相は流されねばならなかったのか、そこに三兄弟は
どう関わったのか。この幕を観ないとわからないし、
夜の部の、賀の祝い、の前提の話しにもなっている。

次でもよかったのだが、ここの休憩で弁当。

木挽町[辨松]の弁当。

 


おかずは、右上から下へ豆きんとん、玉子焼き、蒲鉾、
葉唐辛子の佃煮、あげボール、うま煮(椎茸、牛蒡、筍、里芋)。
きぬさや、中央のギザギザしたのは「つと麩」といって
江戸東京伝統の生麩。かじきの味噌焼き、切りいか、奈良漬。

いつも同じ味であるが、歌舞伎見物のお供にはこれがよい。

続けて、二幕目 筆法伝授(ひっぽうでんじゅ)。

菅原道真というのは後世、天神様になり書道の神様になっている。
そういうことを踏まえているのであろう、帝から筆法を
次世代の者に伝えなさいという命があり、これを弟子の
武部源蔵とういう者に伝える。

この武部源蔵という者はこの時、菅丞相から勘当を受けている。
戸浪という菅家の腰元と夫婦になっているのだが、いわゆる朋輩
(ほうばい・同僚のこと)どうしの恋愛はご法度であったから。

筆法伝授と勘当は別ということで、武部は伝授はされるが、
勘当は勘当のまま。

と、ちょうどそこへ朝廷から菅丞相へ呼び出しがかかり、
先の加茂堤の件で、謀反が疑われ閉門蟄居となってしまう。

菅家の家来である梅王丸はせめて跡継ぎだけでも助けたいと
息子の菅秀才を武部源蔵に託す。

ここまでが、筆法伝授。

菅丞相が仁左衛門、武部は染五郎。

この芝居の菅丞相というのは、書いている通り、
江戸時代には既に天神様で、半ば神を演じている
ということになっているわけである。
さすがに仁左衛門はこの近寄りがたい雰囲気を十二分に
演じている。

これに対して、武部源蔵はこの幕ではまだまだ修行中。
まだまだ若々しい染五郎はよく演じているように
観られた。

実は、この武部なるものは、菅丞相の息子を預かることで、
夜の部の寺子屋で重要な役回りを演じるのである。
やはり、この筆法伝授を観ていないと、寺子屋の意味が
いまひとつわかりずらくなっているといえよう。

さて。ここでちょっと余談である。

この幕は菅丞相の屋敷が舞台であるが、江戸時代の歌舞伎らしく
襖に大きく家紋が書かれている。襖が生まれるのは室町時代以降で、
当然、平安時代初期の貴族の館に襖はないわけである。

で、その、この襖に書かれている家紋のこと。
これは、梅の花を図案にした「梅鉢」なのである。
梅鉢というのは私などには神社としての天神様の紋である
というのは今でもそうなので知っているのだが、
家の紋とすれば、加賀百万石の前田家のものだと思ってきた。

菅原家の紋がもともと梅鉢で前田家は菅原家の末裔を名乗っており
この梅の家紋を使っていたということのようである。

しかし、それにしてもそもそも家紋というのは平安時代にあったのか、
疑問に思い、調べてみた。
家紋は、平安の終わり頃に貴族が家を象徴するものとして
使い始めたというのが起源らしい。
その頃、菅原一族は梅紋を既に使っていたとのこと。(ウィキペディア)

というと、道真の頃にはまだなかったはずである。
菅原道真は飛び梅伝説など梅とは切っても切れない縁があり、
道真より後、道真にちなんで使い始めたということなのであろう。


つづく





 

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