断腸亭料理日記2015

歌舞伎座秀山祭九月大歌舞伎

通し狂言 伽羅先代萩 その4

9月22日(火)夜

「伽羅先代萩」観劇記その4。

昨日は観劇の評、らしきものを書いてみた。
なにぶん歌舞伎トウシロウのこと、的外れはご勘弁のほど。

さて。

今日は、ちょっと別の観点でこの芝居、あるいは、
伊達騒動の周辺のことを書いてみたい。

一つは、吉原の花魁、高尾のこと、で、ある。

多少「先代萩」から離れるが、伊達騒動といえば、
どうしても高尾に触れなければならないと思うので
書かせていただく。

落語ファンであれば、高尾のことを聞いたことのない人は
おそらくいなかろう。

「高尾」というのは、吉原の三浦屋という家の最高位の
花魁の名前でなん代もあったと説明される。
落語には「紺屋高尾」という有名な噺もある。

大名道具などといわれた最高位の花魁が、
いっかいの紺屋の職人の内儀(かみ)さんになった、という
お話しで、まあ純愛もの。

この「紺屋高尾」の枕などで触れられることもあるが、
「仙台高尾」という高尾の名前が出てくる。

そう。

この伊達騒動の発端となった三代藩主の綱宗の吉原通いの
相手が、この「仙台高尾」(ということになっている)。
しかし、三浦屋の高尾のことは今回の「先代萩」には出てこない。

私自身、このあたりが大きな疑問であったのである。
また、ことの真偽も。

実は、拙亭の居間にかかっているカレンダーは
歌舞伎座のもので、この9月と10月は、三浦屋の高尾、
の芝居絵(浮世絵)なのである。(↓この絵)


其面影伊達写絵
文化10年(1813年)江戸・中村座 豊国画
高尾2代目尾上松助

実は、今回「先代萩」を観るので、この芝居かと思って、
カレンダーの最終ページをめくって、絵の出典を見てみたのである。
すると出てきたのは「其面影伊達写絵
(そのおもかげだてのうつしえ )」という外題。

はあ、これのことか。

歌舞伎にいくつもある“伊達騒動もの”の一系統のようである。
昨日、出した2枚続の浮世絵も、この芝居の
重要なシーンを描いたもの。

昔からの歌舞伎好きの方はこの芝居、ご存知かもしれない。
むろん、私は観たことがない。

最近は演っていないのでは、なかろうか。
なにか情報がないかと調べてみたが、
この芝居の浮世絵は出てくるが
どんなお話しなのかなど、詳細は見当たらない。

一方で落語家、先代の三遊亭金馬師の録音にズバリ「仙台高尾」


というのがあった。

先代金馬師は以前から大好きだったが、
この音を聞くのは初めて。
こんなのがあったのも知らなかった。
聞いてみると、落語というよりは、漫談のようなもので、
おそらくはこの芝居「伊達写絵」のことを語っているようである。
伊達の殿様は三浦屋の高尾に入れあげ、かなりの高額を出して
身請けをする。

しかし、高尾には浮田重三郎という浪人の
間夫(まぶ)が既にいた。
それを無理に身請けをされてしまったという格好。
身請けをされて仙台公の屋敷に引き取られても、高尾は
浮田重三郎に操(みさお)を立てて首を縦に振らない。
殿様は隅田川へ遊びに行こうと誘う。

高尾丸という大きな屋形船を作り、川遊びに出かける。
しかし、それでも高尾はノー。
怒った殿様は、隅田川の三又(みつまた、今の箱崎付近)で
逆さに吊るして、切り殺した、という。
(鮟鱇の吊るし切りは、ここから、仙台切りともいう、らしい。)

昨日の絵はその場面なのである

本当であれば、まったく、ひどい話しである。

箱崎には、高尾の亡骸があがり、
今も、高尾稲荷というお稲荷さんがある。

先代金馬師の言葉では「最近も演っていた」というので、
戦後もこの芝居は上演されていたのであろう。


君はまだ 駒形あたり時鳥(ほととぎす)


この句は仙台高尾の作といわれている。

浮田重三郎のことなのかわからぬが、
朝帰っていった男のことを想い、今頃は、駒形あたりまで
いったろうか、と詠んだのか。

仙台高尾というのは本当にいたのであろうか。

いくらなんでも東北の雄藩の若いとはいえ、殿様である。
そんなことをしたのか。(いや、それよりも、
もっとわからぬのは、仙台藩はその頃も続いていたし、
こんな芝居が上演できたのも不思議といえば不思議。)

歴代高尾については様々な逸話と説がある。

仙台高尾については、当時の新吉原三浦屋には
高尾という名前の花魁はいなかったともいう。
(ウィキペディア)

仙台三代藩主伊達綱宗が隠居に追い込まれたのは
万治3年(1660年)。

それまで今の日本橋人形町あたりにあった吉原が
浅草の北に移転させられて、新吉原が開かれたのは、
明暦2年(1656年)。
なんと4年しかたっていない。

こんな頃の記録、それも遊女屋の信用に足る記録が残っていようか。
江戸の頃にも、高尾というのは興味の的であったようで
論考のようなものも複数残っているようである。
現代の日本史学として、きちんと調べたらどうなのであろうか。
なかなか、難しそうではあるが。

しかし、で、ある。

今のまま、神話のような状態で、そっとしておいてもよいか。

もし史実であったとしても、その方が
仙台高尾の供養になるような気もする。



つづく




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