断腸亭料理日記2019

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その8

さて、円朝師の個人史。

明治元年(1868年)となった。
「ご一新」。
明治維新、で、ある。

ただ、そうはいっても庶民の生活は続き、寄席は毎日幕を開け、
円朝も高座に出演続けている。

また引越し。
ところは、浅草旅籠町一丁目代地。
今も代地町会があるが、柳橋一丁目、総武線の南。

ご一新を機に、それまで磨いてきた、また自らが売れた種である
芝居噺から素噺(すばなし)一本にする。
芝居噺の道具一式は、弟子の円楽に譲る。
円楽には、三代目円生を継がせる。

素噺というのは、ここでは道具などを使わないノーマルな噺
という広い意味と考えればよいか。

また、この頃、妻帯をしている。
(ただ、流石に売れっ子噺家。さらに二人の相手がおり、
そのうち一人とは、既に子供まであったようである。)
また、明治4年(1871年)には父、円太郎が亡くなっている。

なんとなく、身辺が改まっていくよう。

ご一新になり、いつまでも寄席もそのまま、ということはなかった。
明治3年(1870年)東京府は一つの取締り令を出している。

 市中寄場之義、軍書・講談・昔噺等に限、浄瑠璃人形取交(とりまぜ)

 又は男女入交(いりまざ)り物真似等いたし候儀(そうろうぎ)

 不相成旨(あいならぬむね)、去巳(さるみ・昨年の巳年)十月中

 及び布告置候処(ふこくおきそうろうところ)、近来猥(みだり)に

 相成候間(あいなりそうろうあいだ)、向後堅相守候様(こうごかたくあい

 まもりそうろうよう)、年寄共厚心付可申事(としよりどもあつくこころづく

 べくもうすこと)
                         明治三年 東京府布達

寄席の演目は講談、落語などに限り、人形と浄瑠璃を取り混ぜたもの、
また、男女が入交じった物真似が禁止されている。
寄場というのは、ヨセバと読むが、江戸からの呼び名で、寄席のこと。

前年にも、史料は確認できぬようだが、同じような通達が出されており、
また、特に罰則規定もないようであり、守られていなかった可能性も
示唆される。ただ、庶民のささやかな娯楽にも新政府は幕開けすぐの段階で、
なにか物申すことを表明したことに意味があろう。

明治5年(1872年)には寄席の免許(鑑札)制と課税が決まる。
税は芝居の劇場に比べれば安かったようだが、意に反するところは免許の
取り消しもあり、管理監督するぞ、ということになる。

次に、明治6年(1873年)には、東京府知事大久保一翁名で
「狂言ニ紛敷(まぎらわしき)儀は、一切不相成(いっさいあいならず)」
とした取締令を出している。

狂言は芝居(歌舞伎)のこと。寄席では歌舞伎芝居のようなものを
してはいけないとのことである。

亡くなった六代目円生師などは、寄席で芝居をしてはいけなかった
ということを話しているが、このことであった。
また明治政府は『「下等社会」=民衆世界の(文明開化への)
教導に寄席を利用』することを考えた、という。

また、明治4年(1871年)邏卒(らそつ)という名前で
お巡りさんが生まれる。明治7年(1874年)邏卒は巡査と改名され、
寄席も巡査に監視させることになる。

また、これは明治10年になるが「猥褻(わいせつ)ノ講談」の
禁止という項目、また「灯火消シ客席ヲ暗黒ニスベカラズ」が
取締規則に加わる。

「猥褻の」というのは、エロでよいのか?、具体的にどのようなものか。
現代に残っている落語で露骨な性描写のあるものはほぼないと思われる。
吉原など遊郭が舞台のものでも性描写は演じない。
これはその影響なのか。

バレ噺、あるいは艶笑落語というようなもの。
まあ、品のないものは、いくつかある。
例えば「疝気の虫」。以前は疝気といって男の睾丸に虫がいると
いわれていた病があった。この虫は蕎麦が好きで、蕎麦の香りでおびき出し
内儀(かみ)さんに移し、隠れるところがないので一網打尽にする、
という。志ん生師が演り、談志家元が好きであった。品はないが抜群に
おもしろかった。あるいは「錦の袈裟」「鈴振り」「金玉医者」
、、、「蛙茶番」あたりも入るか。

基本、寄席興行は夜の方が多くお客は男。
むろん、ろうそくのみの照明でただでさえ薄暗かった。
エロでなくとも怪談噺で、今もやるが、演出上真っ暗にすることは
通常のことであった。
真っ暗にしてはいけないという規則である。

残っていないが幕末は、エロでもっと露骨なものも演じられていた
と考えるべきであろうというのが須田先生の見解のよう。

明治16年には寄席にかけられる演目は、講談、落語、浄瑠璃、
唄、音曲、手品、繰人形に限定される。

規則が出されるたびに、細かく詳細に渡っていく。

ちょっと、おもしろいのは外国人芸人の出演禁止である。
ご存知の方もあるやに思うが快楽亭ブラック師の初代(明治
10年代〜20年代に活躍)に当てた規定があったようである。

ともかくも新政府は「国家に益なき遊芸」をどうでもよいもの
として放っておいたのではなく「積極的に干渉し統制し」ていった。

そして文明開化という国家目標のため「国民教導を企図する
(ために寄席を利用するという)明治政府の“呼びかけ”に
対して積極的に“振り向いた”噺家が三遊亭円朝であった」
というのである。

円朝師の代表作といえる「累ヶ淵後日の怪談」(明治になり
「真景累ヶ淵」と改題)」は安政6年(1859年)完成、「怪談牡丹灯篭」は、
文久元年(1861年)。どちらも幕末、円朝師20代。
また、書いているように道具や背景を使った芝居噺で売れた
ということもある。

歌舞伎芝居でも、鶴屋南北あたりからの江戸後期から幕末にかけて怪談
が流行り、あるいはケレンなどというが、早替わり、宙乗りといった
派手で観客を驚かせる演出が流行した。ドラマ「仁」にも登場していたが
幕末から明治に活躍した美形の女形三代目沢村田之助は宙乗り中に落下、
それが元で脱疽になり四肢切断になっても舞台に出続けたなんという
凄まじい役者もいたほど。
お客を呼ぶためには、できることはなんでもするというのが
基本姿勢であった。
歌舞伎興行というのは、今もそうだがお客をどうやって呼ぶのかは
むろんのこと死活問題。江戸期、千両役者などというが大看板、
座頭級の役者は本当に年、千両の給金と、べら棒に高かった。入場料も
庶民ではちょくちょく行ける金額ではなかったのである。芝居が
当たらないと潰れてしまう。実際に不入りで経営が傾くことはよくあった。
皆、必死であったのである。

このあたりも一連の風潮といってよいのだろう。

先に、道具を使った噺を封印し、素噺に変えたと書いた。
円朝師のこうした動きはまず、これら明治政府の初期の
寄席統制と歩調を合わせていた。

 

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 


つづく

 

 

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