断腸亭料理日記2019

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」
〜断腸亭考察その34

引き続き「黄金餅」。

情報が少ないながら、円朝以降どんな風に現代まで伝わってきたのか、
追ってきた。

後半があり、金兵衛の餅やは一度は成功するが、金兵衛の息子によって
家は潰れる。この勧善懲悪の後半部分はおもしろくなかったため、
演じられなくなった。単につまらなかったというだけでなく、演者も客も
勧善懲悪を求めなかったともいえると考える。

そして円朝から(?)志ん生(5代目)まで、品川の円蔵(橘家円蔵
(4代目))もおそらく演った(できた)であろうことから、明治・大正
・戦前と、笑いがべら棒に多い噺に複数の落語家によって練り上げられて
いったであろうということがわかってきた。

円朝全集をみると本来笑いは多い構造の噺であったのだが、それ以上に
である。遺体損壊や遺体からの窃取といった陰惨さを打ち消し、エンター
テインメント性を高めるため笑いをどんどん増やした。

円朝全集以前というのは、わからないのだが、元来は三遊派の噺
ではなく、柳派の人情噺であったという情報も出てきた。

「黄金餅」は幕末に成立した。明治初め、円朝も手掛け、円朝全集に
入る段階では凄惨ではあるが、笑いの多い現代に伝わっている構造の
噺には既になっていた。
その後、より寄席の客に受けるためにより多くの笑いが付け加えられた。
こんな風に考えられると結論する。

なんでこんなことをしたのか。
凄惨でも観客に受けるのであれば、演者はより磨いて、演る。
これは芸人としては当然のこと、あたり前である。

それも勧善懲悪を磨き上げるのではなく、落語らしい笑いをどんどん
増やしていく方向である。

さて、ここがポイント。
勧善懲悪ではなく“落語らしい笑い”である。

「黄金餅」の笑いはふざけているが、抑制のきかない悪ふざけでは
ないと思うのである。センスの問題である。落語らしい笑いというのは、
いわゆる悪ふざけではない。書いているように、既成の権威や規範を
疑ってみるという、笑い。抑制はきいている。
抑制がきいている形が生き残ってきたというべきであろう。
ただの悪ふざけではとても生き残れない。

「こんだ、大家さん担ぎゃしねえか?」
例えば、これ。

あるいは貧乏寺で、大酒呑みの和尚の、滅茶苦茶なお経。
これも寺や住職といった権威、規範を疑ったところに発生する
落語らしい笑い。

聞く側のポジションによれば、悪ふざけと感じる人もあろうが、
寄席の客にはOK。受け入れられてきた。
このあたりが、絶妙なセンス。
これが落語の笑い、落語のセンスなのである。

余談だが、ビートたけし、の笑いというのは、やはり落語に起源の
ある同じセンスの笑いといってよいだろう。本当はTVではできない。

抑制のきいている、きいていないというラインこそが、とても重要
であろう。抑制がきいていると思えなければ、笑いにもならない。
いわゆる「洒落になんねえ」というやつである。

このラインを探す試みこそが、結果としてだが、人間の本当の姿、
人間というものを突き詰める作業になってきたのではなかろうか。

既成の権威、規範を疑い(笑って)そうではない、人間になくては
ならない、本当のライン(規範)を探す作業であろう。
だから落語は凄くなったのである。
「黄金餅」が生き残ってきたということは、落語的センスでは
金兵衛のしたことは是(ぜ)、無罪、ということになろう。
人間というものを突き詰めていった結果である。

幕末「悪党の世紀」にはまず、下谷山崎町や浅草誓願寺店で食うや
食わずで暮らしていた人々がいたのである。そしてラインは地に
落ちていた。金、慾。博打、暴力、強請り、強盗、殺人、なんでもあり。
片や、ここがスタート地点。

また、もう一方で、それ以前からあった仏教的、あるいは儒教的
規範、倫理観は幕末、明治0年代にも世の中にあった。
むしろ揺り返しとして、より意識していた人もいた。
これを寄席において貫き通したのが、円朝である。

地に落ちたラインをいきなり上げても、寄席では誰も付いてこない。
説教くさくておもしろくもない。坊さんの講話を聞いていればよい。
それで円朝の「牡丹灯籠」「累ヶ淵」が生まれたのである。
類稀(たぐいまれ)なストーリーテラーであり落語演者であった
円朝はなんとか、勧善懲悪を飽きさせないで聞かせられる一つの
世界を作り上げることに成功した。
やはり、幕末から明治、その後も含めて寄席にあって円朝は特異な
存在であったということができよう。なぜならば、同じような勧善懲悪の
噺は円朝以後は皆無ではなかろうか。(これはもう少し吟味が必要か。)
ただやはり、あまりにも悲惨で悲しい「悪党の世紀」を生きた人々に
とっては勧善懲悪は必要であった。時代、お上も求めた。寄席の
社会的存在価値を認めさせ、猥褻といわれた噺家の地位を上げる
こともできた。

円朝以後、その他の噺家達は、ラインを探す活動をしてきた。

そして、最低のスタートラインがあったからこそ、人間を突き
詰められたということもできるのではなかろうか。

演者、作者は上がっているものをそうそう簡単には下げられない
ではないか。下げる動機すらないかもしれない。
演者、作者には「悪党の世紀」の記憶、最低ラインが常にあり、
明治以降も伝えてきた。談志にもたけしにも伝わっている。
(ある意味、志ん生も談志もたけしも“悪党”なのである。)
そして、観客にも意識されないかもしれぬが伝わってきたと
いうことができる。

もちろん、明治以降の世にそれを正面切って是(ぜ)とはいえない。
このあたりはいいのか、このあたりはだめなのか。笑いになるのか、
ならぬのかを、探してきた歴史であった。
こうした作業をしながら伝統となり、江戸(東京)落語は成長してきた。
やはり「悪党の世紀」がなかったら今の形の噺にはなっていなかった
といえまいか。

ここまでのこと、もちろん「黄金餅」についての話で、こうした、
“攻めた”噺は数ある噺のうちの極端な例で当てはまらないものも
数多くあるのは事実であるが、、。

さて。
ちょっと例を引きたいのは先にちょっとだけ触れた「らくだ」のこと
である。

「らくだ」は上方に起源のある噺であるが実に「悪党の世紀」的である。

遺体に踊りを踊らせて、大家を脅し、食い物や酒を出させる。
遺体損壊、強請り。らくだも丁の目の半次もならず者、悪党である。
また、巻き込まれる久蔵は貧乏で下層民である屑や。
これが、昭和初期に歌舞伎になっている。

「らくだ」は上方落語から、明治になり東京に伝わった。
明治以降、落語家の東西の交流というのは例が出始める。東の落語家が
西に行って噺をする、逆もまたあり。
「らくだ」は三代目柳家小さんが京都の落語家四代目桂文吾を1910年
(明治43年)に人形町末広に招いた際に、伝えられたといわれている。
(ウィキ、出典不明だが「落語の鑑賞201」(延広真治編)にも三代目
小さんが移したことはあるので、裏は取れるのであろう。)

 

つづく

 

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 

 

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