断腸亭料理日記2007

浅草寿町・とんかつ・すぎ田、、

元浅草界隈のこと。その2

2月3日(土)夜

今日は昨日のつづき。

浅草寿町のとんかつや、すぎ田までいくのであるが、
この機会に、元浅草から、寿あたりの様子を書いている。
元浅草三丁目、四丁目、昨日は、永住町、安部川町を書いた。
今日は、その南にある、三筋北から。

(段々、「料理日記」から離れつつあるような、、。)

****************

新堀通りに接する、三筋北には
白鴎高校付属中学の東校舎がある。
(高校は、元浅草一丁目、七軒町。)
以前は、明治から新堀小学校、その後、台東中学校であった。

三筋の由来は、この南側、今の春日通りの南、
江戸の頃、幕府御書院の与力同心の組屋敷が、
三つの筋に分かれてあったことから、
いわれるようになったという。

ここまでが、元浅草。
ちょっと元浅草を、まとめてみたい。

元浅草は今、浅草通り、新堀通り、春日通り、
清洲橋通りに囲まれた一画である。

江戸の頃には、このうち、春日通り、清洲橋通りはなく、
今の浅草通りは、新寺町通りと呼ばれていた。

そして、旧町(現町会)でいえば、七軒、永住、阿部川、南松山、菊屋橋、
三筋北(町会名は元浅草三丁目)、の六町が鳥越神社の氏子で、
これ以外に、永住町の北側、浅草通りに面した元浅草二丁目の一部、
東側、左衛門橋通り沿いが南清島、そして、西側、清洲橋通り側が
南稲荷町(町会名は元浅草二丁目)が下谷神社の氏子
と、いうことになる。

同じ元浅草でも二町だけ、下谷神社で、
微妙に氏子範囲が違ってくるのは、おもしろい。

どこの氏子範囲なのかは、どこのお神輿を担(かつ)ぐのか、であり、
住んでいる者にとっては、大きな問題である。
やはり、これはある種のアイデンティティーに他ならないのである。
元浅草の多くは、鳥越様。
よそから引越してきた筆者などでも、七軒町に住んでいれば、
その範囲で親近感をおぼえるものである。

何回か書いているように、元浅草界隈は江戸からの寺町である。
これは今も変わってはいない。
お彼岸やお盆には、黒い服を着た墓参りの方々が町にはあふれる。
そして、浅草通りの南側には、仏壇屋が一列に軒を連ねる。
(おもしろいのはこの仏壇屋、浅草通りの南沿いだけで、
一本なかへ入ったところや、北側には、一軒もないのである。
日光が店に入り、商品の仏壇が日焼けせぬように、
店としては北向きがよいから、というのが理由であると
聞いたことがある。しかし、あの一列だけで、まわりには
ほとんど皆無、というのも、よくしたものである。)

このあたりが寺町になっていったのは、江戸期、明暦の大火後。
明暦の大火は、1657年。1603年が江戸開府であるから、
江戸の町ができて50数年後。
三代将軍家光が死んだのが、1651年。元禄が1688年からであるから、
そこまでもまだ30年。260年続いた江戸時代としては、
まだまだ初期、といってよい頃だろう。

今の、菊屋橋交差点北東の浅草本願寺を筆頭に
比較的まだ、郊外であったこのあたりに、
寺が集められていったようである。
(この頃は、江戸の都市建設、再構築期なのであろう。
そして、今の東京の町割りや、施設の配置の原型にも
なっている、ということにもなっているような気もする。
大火で焼け、現日本橋人形町付近にあった、吉原も、浅草北部、
田んぼの中に持っていったのもこの時期である。)

そして、元浅草界隈、明治以後は、寺は残ったが、
武家屋敷は町屋になり、池波先生のお祖父さんがそうであったが、
錺物(かざりもの)を中心にした職人の町になっていったという。
錺物とは、簪(かんざし)やら、帯留めなどの金属の細工もの、
などと辞書には書いてあるが、身近に簪などがない
現代の我々にはまったくピンとこない。

なんとなく、今の筆者にわかるのは、徽章メーカーが
何社か、元浅草にはあること。
拙亭の目と鼻の先、七軒町には、松本徽章工業さんという会社の
本社がある。

徽章とは、学校の校章やら、会社の社章やら、金属のバッジのことである。
今なら、ピンバッジ、といった方がわかりやすいのかも知れぬ。
この松本徽章工業さんの初代は、この地で、やはり錺職であったという。
由緒正しい、元浅草の伝統産業、で、あろう。


だいぶ長くなってしまった。
こんなところで、元浅草については、書き尽くしたであろうか。

歩けば、10分もかからない、寿のとんかつや、すぎ田は、
思いがけず、遠い。

(参考:「下谷・浅草町名由来考」東京都台東区)


『お詫びと訂正』

「1月27日、上野・昇龍の餃子と上野の山 その2」の回。
不忍池、弁天堂の話から、落語、影清のことになった際、
主人公が倒れた場所を、土橋、として、
不忍池から、流れる川にかかった、上野広小路の橋、であると
書いておりましたが、これは、大間違い。

「影清」にで出てくる、土橋、は、そもそも、
今の新橋にあった橋のこと。
不忍池から、流れる、忍川に架かった広小路の橋は
三橋(みはし)、でした。(橋が三つあったので。)
三橋は、過去には、上野三橋町として、町名にもなっており、
現代でも、あんみつの「みはし」として、ABAB(あぶあぶ)の
そばにある甘味屋さんの名前に残っていました。

たいへん申し訳ございませんでした。
お詫びして訂正いたします。

(言い訳をしますと、下谷万年町から、中央通りを言い立てる
落語「黄金餅」の台詞からでした。
「黄金餅」には、当然ながら、ここの三橋も、新橋の土橋も
両方出て来ます。どちらも今はない橋なので、
頭に引っかかっていたので、混同してしまいました。

もう一つ、この忍川は、ここから東に流れ、いくつか屈曲しながら、
その流れの一部は、元浅草の白鴎高校、旧第一高女前を、
流れていたようです。古い第一高女の写真を見ると、正門の脇に
堀のようなものが写っています。)



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