断腸亭料理日記2007

三田・立ち呑み・串揚げ・たけちゃん

その1、界隈のこと

12月10日(月)夜

夕方、珍しく、田町、三田。

田町、三田にこの時間、といえば、たけちゃん
東京で珍しい、大阪スタイルの、串揚げ、土手焼きの立ち呑み。
`04年に、一度いっている。

しかし、田町、三田は筆者にはほとんど縁がないので、
これ以来、これていなかった。

大阪の串揚げ、立ち呑みといえば、9月に、大阪出張した時に、
なんばの地下街でいっていた。

寒くなると、串揚げ、というよりは、おでん、かもしれないが、
夕方、そうそうこれない三田にいると、やはり、ダメ、で、ある。

場所は、この界隈を知らない者には、ちと、わかりずらい。
田町駅前、第一京浜を渡り、正面にTSUTAYAがある。
その右脇の路地。ここ、路地が、交錯している。
左手前にTSUTAYAの裏を第一京浜に平行している裏通りと、
その奥、すぐに左に曲がり、慶大前の三田通りに出る通り。
そして、さらにその奥、直進している細い裏通り、がある。

この裏通りは、慶応仲通り、というらしい。
まっすぐいって、左に曲がり、同じく桜田通りに出て、いる。
たけちゃんは、この裏路地に入って、路地が屈曲する手前、
左側に専門学校、そして、右側にある。

この一角、慶応大学前の学生街で、居酒屋など、様々な
中小の飲食店が、かたまっている。

筆者、慶大OBでもないし、なん回か仕事と、
ラーメン二郎三田本店にきた
ことがある程度で、このあたり、ほとんど土地勘はない。
自分のためもあり、例によって、江戸からのこのあたりを
振り返ってみたい。

江戸の地図

まずは右下に海が見える。
田町駅の表示を入れたが、その前が東海道につながる大動脈。
今の第一京浜。
つまり、田町駅の東口は、もう既に、海、江戸湾であった。

この大動脈は、もう少しいくと、高輪の大木戸があり、
そこから先が、江戸の外になり、正確には
そこからが東海道、と、いうことになる。

海沿いに芝、芝濱があり、それに続いて、田町。

ここのJRの駅名は田町だが、町名は今、芝五丁目。
以前には、芝田町。このあたりが田町と呼ばれるようになったのは、
古いようで、なんでも、江戸の初期(寛文2年(1662年))には
町奉行支配になっているという。

そして、札の辻。
今は、桜田通りと、第一京浜の交差点の名前である。
札の辻の札とは、高札場、いわゆる、お触書の書かれた
立て札のあった辻、と、いうことである。

実際には、宝永7年(1710年)、綱吉の直後、家宣の頃、に
この札の辻の高札場は、取り払いになり、大木戸に移っている。
このため、ここが札の辻というのは、江戸の頃から既に俗称で、
正確には、元札の辻、で、あったようである。

ここに高札場が置かれたのは、やはり、江戸の入り口、という
ことからであったからであろう。

高札場は、一般には、街道の宿場などにも多くあったようだが、
江戸府内では、日本橋、常盤橋御門(今の日銀の前、外濠に架かる橋)
浅草御門(浅草橋)、筋違御門
(今の万世橋あたり、神田川に架かる中央通りの橋)、
半蔵門などが、主要な高札場であったようである。

この地図で右上に薩州、と丸に十の紋所が見える。
薩摩藩の上屋敷。そのさらに北側は新堀川(金杉川、古川)があって
芝の増上寺。
薩摩藩邸が、増上寺より外側のこの場所に置かれていたというのも
幕府の扱い、警戒ぶりが想像できよう。

今は、この薩摩藩邸の場所は、南北に日比谷通りが貫き、
その日比谷通りは、芝五丁目で田町駅の手前の第一京浜に合流している。

これに並行する、桜田通りは、赤羽橋から真っ直ぐに南下し、
道沿いに、三田一丁目、二丁目の町屋と、
伊予松山藩松平隠岐守下屋敷、
阿波松山藩松平(蜂須賀)阿波守下屋敷などあり、
肥前島原藩松平主殿頭下屋敷。これが、現在の慶應義塾大学。

築地鉄砲州に福澤諭吉先生が慶応義塾を開塾したのが
1958年(安政5年)、そして、この地に移転してきたのが、
1871年(明治3年)。
筆者が、慶大の歴史をここに長々と述べるには及ぶまいが、
来年が、創立150周年、ということらしい。

慶大の反対側は、三田同朋町、芝通新町という町屋であった。

明治以降は、この界隈、
慶応大学前の学生街として発展してきたのであろうが、
もう一つ、明治の頃には、既に、工場地帯としての側面もあった。

現代、先の日比谷通りと第一京浜の交差点の、
日比谷通り側に、今、NEC、日本電気の巨大な本社ビルがある。

またまた、NECの歴史を詳細にここに述べることはしないが、
NECの創業は1899年(明治32年)のようだが、明治40年の
このあたりの地図には、既に、今の場所に日本電気の工場がある。

これ以外にも、第一京浜沿い、田町駅の少し南側に東京第二煙草製造所、
同じく煙草工場の、村井兄弟商会などなど、いくつもの工場があった。
これは最近読んだ、獅子文六の「ちんちん電車」(河出文庫)にも
著者が、若かりし頃、慶応義塾に通う市電の車窓風景として、
書かれてもいる。

(この獅子文六の「ちんちん電車」はおもしろい。
大正から、昭和初期の、品川から、このあたり、さらに新橋、
銀座、京橋、日本橋、神田、上野、浅草までの、市電・都電
(品川→上野、浅草の路線は今の、都営地下鉄浅草線にほぼ相当するが、
当時の市電・都電の大幹線であった。)
の車窓からの町々、ことに、食い物やについて書いたエッセイで、
史料として貴重でもあるし、比べるのも恐れ多いが、
このような拙文と似たコンセプトで、なんとなく、くすぐったい。)


長くなった。たけちゃんにたどり着かなかったが、
今日はこのへんで、お仕舞い。続きは明日。





参考:明治江戸東京重ね地図



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