断腸亭料理日記2009

京都東山・青蓮院門跡と、にしんそば松葉

11月19日(木)

今週は、忙しかった。
月、火と、京都、大阪出張であったことは書いた。
実は、今日、木曜日も京都出張であった。

コストを考えると、むろん、そのまま泊っていた方が
安いのだが、水曜日に会議があり、一度戻り、
木曜に、また行くことになった。

今日の京都行は、少し時間があったので、
ほんの少しだけ、観光らしきものもしてみた。

東山、知恩院、円山公園あたりを歩いた。

地下鉄の蹴上(けあげ)駅で降りて、
坂になっている三条通を西に。
左側にウェスティン都ホテル京都。

このあたりは、粟田口(あわたぐち)。
京の七口などという言い方があるようだが、
京都へのいくつもある出入り口の内の一つ。
中でも、この三条通の粟田口、と、いうのは、
ここから山科を通り、大津へ向かう、東海道、中山道の
本道、である。

東に向かって、旅に出る人々は、あるいは、東国から
上ってきた人々は、ここを歩いた、わけである。

なるほど。

などと考えつつ、ウイークデーで人通りもあまりない
だらだら坂を降りていくと、骨董などを扱う店もみえる。

知恩院へ折れる、三条神宮道の交差点を南に入る。
神宮道、と、いうくらいで、反対の北へ曲がると、
平安神宮に。

神宮道は路地といってもよいような、細い道。
少し知恩院に向かって、坂になっている。

と、左側に、国宝、開帳、なる言葉が書かれている看板が
目に入ってきた。お寺のようなところ。
観光バスもなん台か、停まっている。

青蓮院門跡?。
なんであろうか。
知恩院の関係か?。

いや、違うようである。
別のお寺。

なにか国宝の御開帳であるのなら、少し見ていこうか。
左に曲がると石段があり、山側が境内のよう。
その斜面に巨大な樹が枝を広げている。
(これは境内になん本もある楠のよう。瘤の沢山ある
樹皮が圧巻である。)

門をくぐり、石段を上がり見学の入口へ。
拝観料1000円也。

説明を読むと、なになに?、青蓮院門跡は、
しょうれんいんもんぜき、と、読むのか。
天台宗のお寺のようなのだが、どうも皇室と関係が深いところ
のよう。粟田御所などという別名もあるようだ。

帰ってきてから調べてみると、
ここは平安末頃の創建。

門跡という言葉はなにか。これが気になる。

門跡、というと、私など浅草に住んでいることもあり、
東本願寺が思い浮かぶ。
今はあまりそういう言い方はしないが、
例えば、浅草本願寺の裏は、門跡裏、などといい、
門跡は、本願寺のことをいっている。

調べると、門跡という言葉の意味は、格の高いお寺、と
いうことらしい。

平安時代以降、宮様、貴族など身分の高い人が出家し、
住職となるお寺をいうのが定義であったらしい。

本願寺はそういう意味では本来の定義には入らない。
しかし、浄土真宗では五門跡といわれ、歴史的に門跡に准じて扱う、
准門跡という格が東西本願寺などに与えられるようになったという。

私の近所では、ご存知、上野の寛永寺も、
上野の御門跡という言い方もされていた。
あそこも、ご存知のように住職は代々宮様が務められ、
そういう意味では、正しい用法の
“門跡”だったのかもしれない。

ともあれ。
青蓮院門跡、で、あった。

玄関で靴を脱いで、襖絵も美しいいくつもの座敷を見て回る。
やはりお寺というよりは、貴族の館という趣きである。

奥の建物。
小御所といわれるところ。
粟田御所といわれる所以。天明八年(1788年)に、大火で御所が
炎上した際に、ここに後桜町上皇が避難されて住まわれていたことが
あったという。奥まったところに、御座の間があり、襖絵などは
立派だが、意外な狭さに驚く。
(もっとも、実際には、当時の建物は明治の頃に焼失し、江戸中期の
建物を移築しているとのこと。本当はどんなものであったのか、
これだけでは、わからない、ということ。)

さてさて、肝心の国宝、青不動明王の御開帳。

その安置されている宸殿という建物までくると、
びっくり。
私、てっきり、お不動様ということで、像、かと思っていたのだが、
絵、で、あった。

正確なことはわかっていないようだ、平安の頃のものだそうな。
当時皇室、貴族、が朝廷の中で、おまつりし、信仰してきたもの
と、いう。

拝観の他の人々がしているように、
私も画像の前、畳に座り、手を合わせ、礼拝。

薄暗い上に、こういうところだと、あまり、じろじろと
観察するわけにもいかぬので、よくよく拝見することもできず
出てきてしまった。

さて。

ここから、庭へ降りて、庭の見物。

この庭がまた、すばらしい。

私は、どうも、庭の見物というのは、基本的には苦手。
どこにいて、どこを見ていいのか、よくわからず、なんとなく、
間が持てないのである。
特に、東京などにある古い庭はほとんどが浜離宮にしても
駒込の六義園にしても、小石川後楽園にしても大名庭園。
これらはまた、広い。どこをどう見ていいのか、
よくわからない、というのが本音、なのである。

しかし、さすがに、こちら京都は違う。
むろん狭くはないが、江戸の大名庭園に比べれば、
小ぢんまり。

東山、粟田山を背景にその竹林だったりをそのまま
借りているように作られ、実際に水の流れる池と小川。
(大きな錦鯉が泳いでいる。)。

今こそ絶好の紅葉の時期。
もみじもむろん、植えられている。
よくまあ、この時期にこられたものだ、という
季節であろう。

下には、杉苔がびっしりときれいに生やされている。

大名庭園と比べれば箱庭という規模かも知れぬが、
逆に全体を見渡すことができ、箱庭の方が緻密に、
落ち着いているように見える。
これは、建物からの眺めもいいし、歩いてもよい。

山側に道が続き、茶室があり、これもきれい手入れがされた、
青々とした、竹林の脇を抜け、下に降りてくる。
降りてくると、草木ではなく、石庭のように、
小石や石でできた坪庭のようなところもある。

この庭は、いくつかの時代に分かれ、なん人かの人の
共作ともいえるようである。
主園、主な部分は、室町の頃、相阿弥という人の作という。
(石庭で有名な龍安寺も相阿弥のものといわれている。)
足利義政から始まる、東山文化の時代。

やはり、なるほど、という感じ、で、ある。

また、江戸初期、の小堀遠州(桂離宮が遠州好みの代表などと
もいわれている。)も関わっているようである。

こんなところであれば、ちょいと、覗く、ではなく、
広間に座り、庭を見ながら、半日ぐらい、ぼー、っと、
していなければ、ほんとうにあじわう、ということは
できないであろう。

しかし、季節も含めて、大収穫の青蓮院門跡であった。
(時間も少なく、きれいに撮る腕もないので、
写真はまったく撮らなかった。
代わりに、きれいなもののリンクを引いておく。)

青蓮院門跡を後にして、隣の知恩院へ。
隣といっても、隣の山、というくらいには、離れている。

こちらは、ご存知のように法然上人が開いた、浄土宗総本山。
とにかく大きい。

青蓮院から歩いてきて、最初の門、黒門というらしい、から
石段を上がってみる。
これが立派だし、息が切れる。

上がって、御影堂などお参りし、境内を一回り。

今度は、正面、男坂の、先のものよりもさらに急峻な石段。
石段の上に立って、下を見ると、眺めはいいのだが、
目が回るようである。
(実のところ、私は、高いところは、苦手、
いわゆる高所恐怖症、である。)

しかしまあ、ここから、降りてみる。

ようやっと、降りて、
大きな三門。

そのまま、左(南)に曲がって歩く。

知恩院の隣は、円山公園。
ここもきたことはあるようだが、いずれ、修学旅行の頃で、
まったく記憶はない。芝生、池、などがある公園で、
茶店、料理や、などが、東山の斜面に点在している。

この円山公園の東、山の下は、八坂神社、祇園さんに、
続いているが、こちらは昨年の祇園祭の頃に、一度きているので、
そのまま降りて、東大路通を渡り、祇園町北側へ。
この前も祇園町の南側であった。
北側を歩くのは、初めて。
白川の新橋。
よく写真やTVに出てくる祇園町風景。

格子が嵌められたお茶屋さんらしい屋並みが続く。
たまたまであろうが、お稽古帰りの舞妓さんであろうか、
通りかかった観光客の求めに応じて、写真のポーズを
取っている。

四条通まで出て、ちょいと、一休み。
気の利かぬところに入るよりも、と、
四条大橋の袂、南座の角にある、にしんそばが名代の
蕎麦や、松葉、に、入ってみる。

すぐに出てきた、にしんそば。


ご存知のように、みがきにしんを甘辛く炊い(煮)たものを
のせた温かいそば。
ここで食べたのは初めてだったのだが、
驚いたのは、つゆが透明なこと。

ただし、甘辛の濃い味付けのにしん、から、味が出てくる。

京都で蕎麦を食べたのは、昨年、先斗町の有喜屋
と、いうところが初めて、で、あった。
ここのつゆは、しょうゆの濃いつゆであった。

歩いていると、京都というところは、蕎麦やも少なくない
ことに気が付く。名物ではあろう。
しょうゆの濃いつゆと、このように透明なつゆと
どちらが多いのであろうか。
わからない。
わからないが、このような、関西風の透明なつゆで食べるのも
それなり、では、ある。

食べて、京都駅へ。

今週、二回目の京都。

なかなか、充実、で、あった。







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