断腸亭料理日記2009

東日本橋・あひ鴨一品 鳥安 その1

11月14日(土)夜

さて、夜は、東日本橋の鴨や、
鳥安。

ここは、有名な店であろう。
昔から知っていたのだが、こようと思ったのは
初めて。

この前、森下の桜鍋や、みの家へいったが、なかなかよかった。

寒くもなってきたし、知ってはいたが、
いったことのなかった、老舗鍋やシリーズ(?)。
と、いうことで、鳥安。

昼、TELで18時半に予約を入れる。

18時前、内儀(かみ)さんとともに、
出る。

拙亭のある元浅草から、浅草橋のすぐ南、なので、
歩いてもいけそう、なのだが、東日本橋のあのあたり、
歩いたことがなく、なんとなく、不安で、蔵前から二駅、
都営浅草線に乗ることにする。

蔵前までは、歩き。

さて、東日本橋のこと。

江戸の地図。


浅草からくると、蔵前通り(江戸通り)は、
浅草橋の、文字通り浅草橋(江戸の頃の浅草御門)で
神田川を渡り、靖国通りを越えるのだが、その手前で、
二つに分かれる。南に向かって、右方向へ斜めにいっているのが、
江戸通り。こちら側は、アパレル、繊維関係の大小の問屋が
軒を連ねる、横山町、馬喰町界隈へ。
そして、左方向は(この通りの名前はなんというのだろうか)
真っ直ぐいくと、清洲橋通りに合流する通り。
江戸の頃には、この斜めの通りはなかったようである。
(できたのは震災後、で、あろうか。)

浅草線の東日本橋の駅は、この清洲橋通りとの
合流の手前あたり。

東日本橋という町名はこの通りの東側と西側に別れ、
東側が一丁目、二丁目、西側が三丁目。
その西側が横山町、南が久松町と、東側、
隅田川側が浜町に接している。そんな位置関係。

馬喰町、横山町、というのは、昔から
いわゆる奥州街道本道沿いで、地図に「郡代屋敷」なども見えるが、
関東各地の天領から、郡代宛に、訴訟などにきた人々が泊まる
宿屋が軒を連ねていたところとして、有名である。
また、その街道の関係で、馬喰町という地名もできている。
宿屋の富、なんという落語もあるが、あれは、このあたり、
の宿屋が舞台。
また、それだけ、にぎやかなところでもあったのであろう。

これに対して、今、東日本橋、と呼ばれているいるところは、
上の地図を見てもわかるが、まずは、東に両国橋がある。
ここからみた方がよさそうである。

両国橋は、地図を見ると江戸の頃は、多少、今より
南寄り、ではなかろうか。
そして、橋の西詰めは、今はビルが建っているが、
西両国広小路の、広場ともいってよいような、
大きなスペース。

現在、両国というと、橋の向こう側をいう。
しかし、昔は、東両国、西両国といわれ、
両方とも両国で、あった。

どちらも、見世物小屋などでにぎわったことは
知れらているが、どちらかといえば、西両国、
つまり、東日本橋側の方が栄えていたとも聞く。

そして、今日の鳥栄のあるあたり。
ちょっと、地図の文字が小さく、恐縮だが、地名でいうと、
薬研堀、あるいは米沢町といったところ。

薬研堀、というのは、今は、唐辛子の名前として
の方が有名かもしれない。
(七味唐辛子の「やげん堀」は、今は浅草にある。)

が、むろん、これは堀の名前。
薬研堀は、明和8年(1771年)、というから、
ご存知、田沼時代頃に、埋め立てられ、上の地図の
ように短い堀があるだけになっていた。
それ以前には、地図で矢印で示した方向に、
くの字に曲がった入り堀、で、あったようである。

この堀の関係であろう、ここには、
幕府の米蔵があったという。その縁で堀のあった隣が
米沢町という町名になった。
また、薬研堀の南側は、明治以降正式な
町名になっているが、矢ノ倉町。
(矢ノ倉は、米倉町よりもさらに古い地名ようのである。)

薬研堀といえば、もう一つ、名が知られているのは、
薬研堀不動、で、あろう。暮れの歳の市が有名か。
ここは、創建は、江戸以前にさかのぼるという、古いお寺。

薬研堀の、薬研とは、昔の、薬(生薬)をすりつぶす道具。
『赤ひげ』が、鉄製の丸いものを押したり
引いたりしていた、あれ。

なのだが、この界隈、医者がたくさん住んでいたと
いう話も残っている。だから、薬研堀、なのか、、。

ともあれ。
先の唐辛子、この薬研堀、薬研と、
まんざら無関係ではないようである。

つまり、七色唐辛子は、唐辛子やら山椒やらを、医者の使う、
その薬研で挽いて、混ぜたものが最初、という。
「やげん堀」のホームページには、
『寛永二年(1625年)日本橋薬研堀町にて、
初代 からしや徳右衛門により開業。』
とあり、寛永二年(1625年)といえば、
江戸も随分と初期の頃、で、ある。

「やげん堀」の唐辛子やは、浅草へ引っ越したが、
ここには、今でも、大木唐からし店、という店が
今でも商売をしている。
余談ついでだが、今は、七味といっているが、
江戸では、七色(なないろ)が元々。つまり、
シチミトウガラシ、ではなく、ナナイロトンガラシ、
といっていた、というのは、ご存知のことかもしれぬ。
そして、この大木さんでは、今でも、七色、といっているよう。

さて。
毎度のことだが、
前置きが長くなってしまった。

あひ鴨、鳥栄。

ここの創業は明治五年。
立地とすれば、やはり、人々の集まる、西両国広小路
のすぐそば、ということであろう。
今は、比較的静かな、住宅地、あるいは、オフィス街、
であるが、明治もすぐのこの頃であれば、
まだまだ両国広小路も栄えていた頃で、
明治の頃の地図を見ても、このあたり、ここ鳥栄以外にも、
料理や、寄席も、あったようである。

今の鳥栄は、御幸通り、日本橋中学校の前。
目立たない。
遠くから見ると、看板も小さく、まわりに、なにもないので、
少し不安になってしまうくらいである。

昔の建物から、改装をしているというが、
今も、こじんまりとした、しもた屋風、と、いってよかろう。

玄関を入り、格子を開ける。

お姐さん(若女将?)が出迎え、名前をいうと、
お二階へ、ということで、奥のエレベーターから、
二階へ上がる。

テーブル席、座敷とあるようだが、どこも個室のよう。

道に面した、座敷の部屋に通される。

部屋はなるほど、床の間はあるが、
竹が壁一面に貼り付けられたりしており
新和風、という趣。

お膳の上のコースター。


鶏の顔と、安。
ちょっとかわいい。

ここは、店名にもついているように、
創業以来、「あひ鴨一品」。
合鴨すきやきのコース一つしかない。

ビールだけ頼んで、待つ。



毎度、前置きが長くなってしまう。
料理に入る前に、一回目、了。
おゆるしを。


あひ鴨 鳥安




住所:東京都中央区東日本橋2-11-7

TEL:03-3862-4008










断腸亭料理日記トップ | 2004リスト1 | 2004リスト2 | 2004リスト3 | 2004リスト4 |2004 リスト5 |

2004 リスト6 |2004 リスト7 | 2004 リスト8 | 2004 リスト9 |2004 リスト10 |

2004 リスト11 | 2004 リスト12 |2005 リスト13 |2005 リスト14 | 2005 リスト15

2005 リスト16 | 2005 リスト17 |2005 リスト18 | 2005 リスト19 | 2005 リスト20 |

2005 リスト21 | 2006 1月 | 2006 2月| 2006 3月 | 2006 4月| 2006 5月| 2006 6月

2006 7月 | 2006 8月 | 2006 9月 | 2006 10月 | 2006 11月 | 2006 12月

2007 1月 | 2007 2月 | 2007 3月 | 2007 4月 | 2007 5月 | 2007 6月 | 2007 7月

2007 8月 | 2007 9月 | 2007 10月 | 2007 11月 | 2007 12月 | 2008 1月 | 2008 2月

2008 3月 | 2008 4月 | 2008 5月 | 2008 6月 | 2008 7月 | 2008 8月 | 2008 9月

2008 10月 | 2008 11月 | 2008 12月 | 2009 1月 | 2009 2月 | 2009 3月 | 2009 4月

2009 5月 | 2009 6月 | 2009 7月 | 2009 8月 | 2009 9月 | 2009 10月 | 2009 11月 |




BACK | NEXT |

(C)DANCHOUTEI 2009