断腸亭料理日記2010

池波正太郎と下町歩き8月 その2

引き続き『講座』の8月。
銀座の回。

昨日は、京橋跡の手前、北詰西側の歌舞伎発祥の地の碑と、
大根河岸青物市場跡の碑まで。

銀座北部の江戸の地図。


現代。



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北詰西側から、今度は中央通りの反対側に信号を渡る。

警察博物館があり、高速の下。
高速の下は、今は、ご存知の通り、飲食店やらの入っている、
モール。

この前に「京橋の親柱」それから「煉瓦銀座の碑」「銀座のガス灯」
やら、まとまって、ある。

まず「京橋」。
最初の架橋は、江戸開府直後、日本橋とほぼ同時期。
明治8年(1875)、江戸期の木造から石造単アーチ橋へと架け替えられた。
現在、明治の親柱2基と大正11年(1922)に設置された
照明設備つき親柱1基が歩道に。京橋川は戦後、昭和34年に埋め立てられ、
京橋も撤去された。

「煉瓦銀座の碑」「銀座のガス灯」の前に、それ以前、
つまり江戸の頃の銀座について触れておきたい。

二丁目、伊東屋の前に「銀座発祥の地の碑」があるが、
この説明にもなる。

江戸の頃も一般に銀座町と呼ばれていたが、正しくは、
上の地図にあるように、新両替町で、表通りに沿った
両側1区画で、一丁目から四丁目まで、現在の四丁目交差点まで。
おもしろいのは、銀座通りに沿った一丁目〜四丁目は、
現在とまったく同じ区割りになっている。
(裏は、別の町名であるが。)
江戸から現在まで、それこそ、300年以上、区割りも含めて
同じ町名のところというのは、東京でも稀有なところではなかろうか。

江戸初期1612年(慶長17年)幕府は駿府から銀貨を製造する
「銀座」を移し、1800年(寛政12年)蠣殻町に移されるまで
この地で銀貨の鋳造が行なわれていた。(銀吹所は二丁目にあった)

とまあ、これは『銀座』そのものの由来。

・江戸期の銀座
この地域、銀座というのは、江戸期の町の様子など意外に記録が少ない。
「銀座」があったこともあり、弓師、鞘師、眼鏡師、乗物師、建具
その他の職人と、それらを売る店があった町のようである。
従って、現代に続くにぎわいは明治以降のもの。
大店、老舗は銀座にはそう多くはなく、にぎわいという点では、
呉服などの大店のあった日本橋だったのであろう。
(文化文政期の戯作者山東京伝は一丁目に住み、
煙草入れ煙管店を開き人気を呼んだという。)

そんなことで、江戸期の銀座は、比較的、静かな街、と、
いってよかったのであろう。

さて。
そんな銀座であるが、江戸幕府瓦解、明治の御代となって、
現代の日本一の繁華街、銀座に至る、大きな転機が訪れた。

・煉瓦銀座の碑
1872年(明治5年)、和田倉門から出火した火事は、
銀座一帯を焼きつくし、築地ホテルにまで及ぶ大火となった。
これを機に東京市は、不燃性の都市を建設することを目指し、
また、築地の外人居留地をひかえ、文明開化の象徴として
銀座煉瓦街の誕生となった。

そして、銀座といえば、ガス灯が最初に灯ったところであるのも有名。

・銀座のガス灯
明治7年、煉瓦街に続き、ガス灯が建設され「京橋以南、点灯十五基」という。
ここに、そのレプリカがある。

大火がきっかけで、今いう、再開発が行なわれたのである。
築地の外人居留地のこともあるが、明治初期の官庁街は、
日比谷、有楽町と、銀座の隣にあったこと。いわゆる文明開化
欧風化を推し進めるいわばモデル地域として、大火でさら地になった
銀座は、かっこうの場所であったのであろう。

当時は煉瓦を焼く職人などもおらず、だいぶ苦労をしたようだが、
表通りの銀座通り沿いだけでなく、裏通りも含めて、一帯を
煉瓦を主体とした、欧風建築にしたのである。この費用は、
東京市などが持ち、その後、民間に売りに出すという形を取った。
元々、江戸期から銀座に住んでいた人々の中には、煉瓦の建物を
嫌がって、離れていった者も少なくなかったという。
そういう意味では、人もまた、入れ替わるきっかけになったようである。
(あとで出てくるが、洋食やの煉瓦亭も裏通りだが、文字通り、
煉瓦の建物であったのかも知れぬ。)

そして。

「明治期の銀座〜日本橋から銀座へ・・・開化と政治・言論の町」

1872年(明治5年)、煉瓦街、ガス灯の完成から東京一の繁華街の歴史が始まった。
鉄道馬車が明治15年開通。その後20年にかけて銀座は欧風化の先頭を走った。

江戸の頃の刀剣、鞘など店から、服部時計店、天賞堂などの舶来品、
時計を扱う店、新聞社、出版社などなど文明開化の申し子といえるものが
続々と開業していった。

また、当時の銀座は、自由民権運動の盛上りを背景にした、
政治、言論、特に在野の言論の中心地でもあった。
明治10年頃までに創刊された、新聞のほとんどは銀座煉瓦地にあった。
東京日日新聞、朝野新聞(銀座4丁目、今の和光の場所)、
曙新聞、読売新聞などなど。その後も朝日新聞、万朝報、国民新聞、
平民新聞他。明治期の銀座は一般大衆の繁華街というよりも
すぐれて政治的色彩の濃い街であった。

今の、四丁目交差点の、和光の場所。
最も目立つ場所といってもよかろう。
ここが、朝野新聞という新聞社であったのは、象徴的かもしれない。

どんな建物であったのかは、確か、両国の江戸東京博物館に、
煉瓦街当時の銀座を再現した、模型があったと思う。

煉瓦の建物といっても、昨日の明治屋ビルのような、大正から昭和初期のいわゆる
ビルではなく、二階建て程度の小規模のものであった。


といったところで、今日はここまで。
つづきはまた明日。







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