断腸亭料理日記2010

池波正太郎と下町歩き8月 その4

引き続き『講座』の8月。
銀座の回。






銀座北部の江戸の地図。


現代。



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昨日は、銀座通り、四丁目の和光まで。
ここから、晴海通りを有楽町方向に曲がる。

数寄屋橋交叉点の手前。
ここに皆さんは、まったくご存知はないと思われるが、
明治初期、秀英社、という名前の印刷(所)会社が開業している。

・秀英社跡(碑などはありません。)
1876年(明治9年)元幕臣佐久間貞一らによって
京橋区数寄屋橋御門外弥左衛門町十三番地に創業。
秀英社は現在の大日本印刷の前身。
秀英社とは英国に秀でるという意味で付けられている。
(昨日の銀座木村屋の看板の揮毫は、山岡鉄舟先生であったが、
秀英社の方はご存知、元幕臣勝海舟伯爵であったという。)
印刷会社の銀座での開業は明治初期に
新聞社が多く銀座に設立されたこととも関係が深い。

江戸の地図を見ていただきたい。
数寄屋橋そばに弥左衛門町というのが見えると思うが、
ここで明治9年に今の大日本印刷の前身、活字を使う活版印刷を
業とする印刷所が、元幕臣によって、創業されている。
今、不二家があるあたりである。

数寄屋橋の交差点。
数寄屋橋阪急の側に斜めに渡る。

阪急の向う側、小さな公園がある。
数寄屋橋公園、と、いう。

皆さん、まあ、ご記憶にあると思うが、岡本太郎先生の
太陽の塔のミニチュア版のような像がある。
そして、その手前、道の近くに一つの碑がある。

・数寄屋橋の碑
脚本家菊田一夫揮毫の「数寄屋橋此処にありき」。
江戸期、外濠に架かる数寄屋橋、そもそもは江戸城外郭の数寄屋橋御門としてあった。
菊田一夫の戦後NHKで放送されたラジオドラマ、ご存知「君の名は」は、
数寄屋橋で待合わせをすることが鍵になっていたのはあまりにも有名で
数寄屋橋の名を全国津々浦々まで広めた。1958年(昭和33年)、
外濠が首都高の建設により埋め立てられ数寄屋橋も取り壊された。

そして、旧外濠は、今、首都高のある場所を流れており
そこに掛かっていた橋が数寄屋橋。
江戸の頃は、明治以降よりも北側に傾いて掛けられていた。
明治に入り、今の晴海通りとして真っ直ぐに日比谷に向かって
架け替えらている。

・数寄屋橋(町)の由来
江戸の地図を見ていただければわかるが、数寄屋橋の南側に元数寄屋町
の名前が見える。橋の名前とこの町名とどちらが先か、いま一つ定かではないが、
町名の由来は、次のように説明されている。
有楽町の由来ともいわれる、茶道の一派有楽流を立てた織田有楽斎
(うらくさい)との関係で、江戸城茶坊主では高位の数寄屋坊主が
住んだのにちなんだともいう。

ここまでの説明をし、もう一度、数寄屋橋交差点に戻り、
有楽町側に渡る。

・有楽町
江戸初期、織田信長の弟、織田長益・有楽斎の屋敷が
あったとからいうのが通説になっている。しかし、織田有楽斎は
生涯のほとんどを上方で過ごしており、ここに屋敷のあった
明確な記録はないようである。また、町名としては江戸の頃はなく、
数寄屋橋御門外が火避け地として広く、有楽原(うらくはら)と呼ばれていたのみ。
江戸までは外濠の外が有楽であったが、明治になり、濠の内側、
大名屋敷群が有楽町一丁目〜三丁目となった。

そうなのである。
今は、有楽町はマリオンやらのある千代田区側だが、
江戸期は、数寄屋橋を渡った外を
町名でもなく広場を有楽原と呼んでいたのである。
明治に入り外濠の内側が有楽町という町名になり、同時に読みも
ウラクから、現在のユウラクに改められたようである。

さて、マリオン。
これはもとは、ご存知、日劇と、朝日新聞。

・有楽町マリオン
正式名称は有楽町センタービル。1984年(昭和59年)オープン。
阪急、西武の百貨店、上に劇場、映画館のビルとして再開発。
日本劇場は東宝の映画館の名前、朝日はホールの名前などに残っている。
ご存知のように西武は今年12/25撤退予定。

マリオンになった頃。私は大学生であったか。
このため、よく覚えている。人形が出てきて、音楽の鳴る
時計が、当時とても珍しかった。

・日本劇場
1907年(昭和7年)、映画劇場として開場。
5円という当時としては高額な入場料で経営はうまくいかず、
3年後には東宝傘下に入る。その後、日劇ダンシングチームも生まれ、
ショー公演と映画の劇場となる。空襲を免れ戦後は一時GHQに接収されるが、
その後復活。昭和30年代には、ご存知、日劇ウエスタンカーニバルなどの
黄金期を迎えるが、1981年(昭和57年)老朽化により閉館。

・朝日新聞と有楽町新聞街
現在のマリオン東側は朝日新聞。朝日は、震災後、1923年(昭和2年)、
銀座からここに移転。
1906年(明治39年)報知新聞今の駅前のビックカメラの場所に。
(第二次大戦中、報知は読売と合併)
前後して1909年(明治42年)毎日新聞(当時東京日日新聞)
銀座から報知新聞の西(現新有楽町ビル)に移転。
有楽町新聞街と呼ばれる。(読売は有楽町ではないが、ご近所、
外濠外の現在のプランタンの場所にあった)

明治からの新聞街は銀座から有楽町へ移動した。
この理由は、時代が進むに連れ、新聞社も大きな場所、
大きなビルが必要になったから、で、あろう。
前にも書いたが、明治初期の有楽町は、
まだ、官庁街であり、それらが、今の霞ヶ関へ徐々に移動し
場所ができそこに彼らがやってきたのである。

マリオンの有楽町駅方向へ抜けると、
ご存知、イトシア、が、ある。

・イトシア
南町奉行所跡
現在丸井などがある、イトシアは07年、再開発された。
ここは江戸の地図を見てわかるとおり、旧幕時代には
南町奉行所があった場所。
町奉行所はご存知の通り、江戸の町の行政、警察、司法を管轄する機関。
この場所に定着したのは享保年間、南町奉行になった、
大岡越前守忠相の屋敷地でいわゆる役宅であったのものを
南町奉行所とし、それ以前は南北奉行所の場所は一定していなかった。
ちなみに、南北奉行所というが江戸を地域的に南北に分けていたわけではなく、
一月毎の月番制で交代に業務を行なっていた。これは江戸幕府では
町奉行以外にも見られる役職の複数制。休み、が目的ではなく、
権力の集中を避けるため、相互の業務監視ということである。

イトシア再開発に際して発掘された遺稿が地上と地下に
モニュメントとして置かれている。

まあ、置かれているものは、行ってご覧になれば
おわかりになるが、たいしたものではない。
しかし、過去、こういうことをした再開発ビル、
というのは、あまりないのではなかろうか。
単なる、記念碑やプレートだけではなく、実際のその頃の
遺物を現代も訪れた人々が触れられる状態で、置いている、
というのは、なかなかいい。
粋なことをするもんじゃないか、と、思わされる。

(多少の余話だが、地下のその遺物の前に、我々一行がゾロゾロと
きてみると、学生風の若い男性が、気持ちよさそうに、その遺物に
寄りかかって、昼寝をしていた。(これを見て、私は吹き出してしまったが。)
この地下は、冷房も効いていて、心地よいのである。
このため、起こすのも可哀想なので、私は皆さんへの
大きな声での説明はできず、書かれている説明を皆さんに
自ら読んでいただいた。しかし、なんだかそれもいいような
気がしているのである。それだけ、この江戸の遺物が、
若い彼にも安心して、昼寝をする空間を与えているのは、
なんだか、うれしいではないか。)



といったところで、今日はここまで。
つづきはまた明日。








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