断腸亭料理日記2010

池波正太郎と下町歩き12月 その2











現代の地図


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江戸の地図

引き続き、12月の『講座』。
浅草橋駅で集合、人形店街のことなど話をし、
南側に歩き始めた。

人形の吉徳をすぎて、浅草橋はすぐ。

橋の北詰、西側に“浅草見附跡”の、碑がある。

皆さんから、
浅草見附って?、赤坂見附みたいね?
という声が上がった。

そうなのである。
見附というのは、城の見張所、門のこと。
先月の虎の門などもそうだが、基本的には、すべての
この種の門は、見附、と、いってよいのだろう。

江戸城のお濠、特に外郭、外濠には
石垣のある門を設けていた。
虎の門も然り。
すべて、見附といってよい。市ヶ谷見附、四谷見附、
牛込見附、といった塩梅である。

しかし、ここが外濠?
ここは神田川、で、ある。

そう!。
神田川は外濠、の機能を持たせられていたのである。

そもそも、家康が江戸に入って、江戸城下を築き始めた当初、
神田川という川はなかったのである。

神田川は、飯田橋から上流は、江戸川というのが
本来の呼び名であるが、この飯田橋から南へ、
今の日本橋川の流れているルートを通り、
隅田川、あるいは、そのまま、日比谷の入り江に
注いでいたと、考えられている。

これが、家康が駿府で死去した後、この駿府にいた
旗本達を江戸へ呼び寄せることになり、
屋敷を建てる場所が必要になった。

また、それだけではなく、江戸城下の拡大が図られ
外郭、外濠の拡大も必要になっていた。

そこで、南に流れていた江戸川を東へ流し、
その南側に城下を広げる、ということが
なされたのである。

水道橋から、御茶ノ水、秋葉原の間は、ご存知のように
神田川は深い谷になっている。

これは当時、人の手で、掘られたもの、なのである。
これで、神田川として東に流れ、外郭、外濠の
役割を果たすと同時に、駿河台の武家地ができたのである。

当初予定の、駿河の旗本達はここに屋敷を与えられ、
駿河台、という名前になったのである。
(ご存知だった方は、皆さんのなかにはいらっしゃらなかった
ようで、『へ〜』、三つくらい?)

ともあれ。
そんなことで、浅草橋ができた明確な記録は
ないようであるが、この江戸川の水路変更が1616年(元和2年)に
完成し、それ以後、奥州日光街道の本道のため、
すぐに、ここに橋が作られたと考えられている。
また、同時に、石垣のある門、見附もできて、
浅草御門が誕生したわけである。

今、橋の向こう河岸は、日本橋女学館。
また、この辺りは、今でも船宿のメッカでもある。
川面には、たくさんの屋形船や、釣り船が
舫(もや)われている。

さて。

ここから、蔵前通り(江戸通り)を向こう側、
柳橋側に渡り、神田川の河岸道の一本北の路地に
入る。

と、左側に小さなお稲荷さんがある。
これは篠塚稲荷というが、氏子町内は広くはないが、
ちゃんとお神輿の出る、お祭りもある。

この境内の石には、さすがに柳橋の氏神様、
芸者さんらしきの名前、料亭の名前、その上、
両国の花火組合、やはり、両国との関係か、
日本相撲協会などの名前までもある。

このお稲荷さんの路地をはさんで、隣も
料亭らしき建物。(見た感じでは、営業を
してはいなさそう。)

さて、次の路地を今度は、右に曲がり、
神田川の河岸道に出て、左折。
隅田川方向に、河岸道を歩く。

右に見えているのが、柳橋
緑色の鉄製。

橋の袂、手前側左の角が、大黒家という
天ぷらや。(そこそこ名は知られていようか。)
右側、川に接して、小松屋という佃煮屋。
今日もそうだが、いつも、甘辛のよいにおいがしている。

さて、柳橋。

橋に上がって、向こう側の歩道へ。

もう、20〜30m先であろうか、大川、隅田川。
その向こう河岸の両国も見える。

今でも、夏は、多少、匂いもするが、この季節は、
水もだいぶ澄んでいるのか、同じ匂いでも
海のよい匂いがし、天気もよく、気持ちがよい。

左側の、神田川の角は、亀清楼という江戸から名代の
料亭であった。いや、これは過去形ではない。
この角は、今は鉄筋コンクリートのマンションになっているが
1〜2Fは、今でも料亭として営業をしている。

料亭亀清楼の建物は、江戸、明治、大正、昭和と、
この角の一等地にあり、大川、神田川の
いわばランドマークであったという。

柳橋の欄干には、その昔の芸者さんの簪(かんざし)を
モチーフにした、飾りがついていたりする。

橋上(きょうじょう)の歩道、温かい日なたで、
柳橋の歴史について、説明する。

東京の花街のこと、数年前から、私自身、気になって、
調べていたわけだが、その東京の花街でも大立者、
花形役者といってもよいのが、この、柳橋であろう。
(もう一か所の大立者は、新橋であるが、これは、
先月、ある程度詳細に調べられた。)

この、柳橋の歴史を明らかにすることは、
東京の花街を振り返る上で、最も重要なこと、
であることは、いうまでもない。
それで、今月は比較的念入りに、この部分ついて、
調べてみた。







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