断腸亭料理日記2010

池波正太郎と下町歩き7月 その2

7月17日(土)。

月一回の「池波正太郎と下町歩き」4回目。
本所深川、両国から、森下まで。

昨日は回向院、元の両国国技館のことまで。



より大きな地図で 断腸亭の池波正太郎と下町歩き7月 を表示

江戸の地図も。


回向院の山門から、再び、暑い歩道に出て、さらに両国橋方向に。

この、隣のビルの奥まったところに、
花火資料館なるものがある。
(花火屋さんの協会のようなところで、
やっているものか。)

小さな資料館なので、ちょいと、のぞこうと、
入っていってみた。

ドアが閉まっており、あれ?営業はまだ?
ドアを開けて、顔だけ入れてのぞいてみる。

ここには、初老のおじさんが一人いるのだが、
そのおじさんが出てきて、12時からなんですよね〜、、
と、いう。

おじさん、出てきて、
しょうがないですね〜、と、いいながらも、
うれしそう。
(このおじさん、説明したい、のである。)

時間もないので、じゃあ、いいです、でもよかったのだが、
皆さん既に涼しい冷房の中に入り、パイプ椅子に座っている。

もうこの状態ではいたしかたなかろう。
事情を説明し、是非、と、お願い。
15分。説明をお聞きする。

この方、もともと、やはり花火師(あるいは、その関係の)
仕事をしていた方なのであろう。さすがに、花火そのものに
ついては、お詳しい。

今の隅田川の花火では、川幅以上の大きさになる花火は
あげられないという。一尺の、いわゆる尺玉よりも、小さなもの
しかあげられない。隅田川は、厩橋の南開場と、桜橋の北会場の
二か所であげているが、桜橋の方は、南会場よりも
さらに、小さなものしかあげられない、という。へ〜。

だいぶ、涼ませていただいた。

お礼をいって、出る。

出たすぐ外の木陰で、おじさんも、話してくれたが、
一応、用意してきたので、両国の花火、川開きの説明。

両国の川開き。
両国の川開きは、1733年(享保18年)お盆の行事、
川施餓鬼から始められている。川開きは例年5月28日(むろん旧暦)。
この日から8月28日までの3カ月は隅田川に涼み舟を
出すことが許された。この初日に花火が上げられるようになった。
日本橋横山町の鍵屋弥兵が両国橋の下流、西両国広小路の
玉屋市朗兵衛(鍵屋から独立したともいい、随分後の1808 年
(文化5年)創業) が受け持った。
享保から始まった川開きの花火は、人々の人気を博し、
花火の製造技術は年毎に進歩し、享保から90年後の寛政年間には
既に多種多様な花火が生まれていたという。
さらにその50年程度後、1843年(天保14年) 玉屋は火事を出し、
江戸所払(ところばらい)になり、以後鍵屋のみとなる。
(墨田区史より)

落語 『たがや』も有名。
(受講生の方々、落語は、いま一つピンとこないよう。
両国の花火といえば私には『たぁ〜がや』なのだが。)

橋の上 玉屋玉屋の声ばかり なぜに鍵屋といわぬ情 ( 錠 ) なし

と、いう狂歌は『たがや』の枕でも必ずふられるが、有名。

なぜ、玉屋はなくなっているのに、花火の掛け声は、
たぁ〜まや〜〜〜、なのか。なくなってしまった、玉屋に
肩入れをした江戸っ子が、こういった、ともいうが、
実際のところは、どうなのだろうか。

明治以降も 両国の花火は、1960年(昭和35年)まで続けられ、
隅田川の汚染、交通事情等ため中断。
1978年(昭和53年)浅草を中心とする現在の形で復活している。

しかし、戦後の中断はあるものの、300年以上同じ行事が
盛大に続けられているというのは、やはり、珍しかろう。
江戸、東京の人々にとって、花火というのは、特別なもの
といってよかろう。

毎度書いているが、都内、23区だけでも、花火大会の数は、
随分と多い。特に、川のある下町は、足立、葛飾、江戸川、
東京湾などなど、区の主催のものも多数あり毎年盛大に
行なわれている。

東京人にとって、春の桜と並んで、夏の花火は、
どうしてもなくてはならない、大事なイベント、
であることは今も変わっていないだろう。

むろん、私も大好き、で、ある。
ちなみに、今年の隅田川は、7/31(土)。

木陰を出て、京葉道路沿いに両国橋方向へ。

一つ目通りを渡り、左側、猪鍋の、ももんじや。
ちょっとグロテスクだが、猪が、ぶら下げられている。

ぶら下がっているのは、以前は、本物の
食べるための猪であったそうだが、今は剥製。

店の前での説明は控え、橋まで。

ももんじやの説明の前に、両国橋の説明。

両国橋。
1659 年(万治2年)架橋。架橋当時は大橋と呼ばれていたが、
武蔵と下総の二国を結ぶという意味で 通称両国橋と
呼ばれるようになった。
1693年(元禄6年)に新大橋が架けられると
両国橋が正式名称 となった。
(ちなみに、両国橋架橋以前は、江戸防衛上の観点から、
隅田川には千住大橋一本だけしか架けられていなかった。
新大橋の後は、永代橋が1698年(元禄11年) 吾妻橋は1774年
(安永3年)。その後は明治まで隈田川には架橋されなかった。)

さて。

ここで、そもそも、江戸中心部から、川向うにあたる、
本所深川の成り立ちから、触れた方がよいだろう。

本所深川の開拓。
本所深川は、江戸開府当時は少数の村落が点在する湿地であった。
1657年(明麿3年)の明暦の大火後、拡大する江戸の町の再構築のため、
隅田川の東、本所深川の開拓が本格的に始められた。
開拓には徳山五兵衛重正(初代本所奉行) などがあたった。
孫の秀家(童書(しげとも))は火付盗賊改を勤め、
池波作品『男の秘図』の主人公。屋敷は代々本所石原町。)
開拓の目的は主として武家屋敷地の確保で当初町屋は少なかった。
また、本所深川は武家屋敷地でも大名屋敷よりは、下級旗本、
御家人の屋敷が多く、例えば実在の火付盗賊改役長谷川平蔵宣以
(のぶため)は菊川に、勝海舟の父、勝小吉は亀沢町(のちに入江町へ転居 )。
鬼平犯科帳などでも書かれているが、江戸市中でも川向うで、
無役の下級旗本御家人が多く、強請たかりなどいわゆる放蕩無頼の者が
多かったのも事実であった。また、本所深川は岡場所(私娼街)も
そんな具合で、目が届きにくく、多くあった。

大名屋敷では、かの吉良上野介の屋敷が本所松坂町にあったのは、
有名だが、これを除くと、藩主のいるいわゆる上屋敷、は
津軽藩のみであった。
(「本所に過ぎたるもの二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原」
という言葉もあった。上の地図にあるが、陸奥弘前十万石津軽藩の
屋敷は、上屋敷であり、この界隈にはない立派なもの。
塩原は落語にもある、塩原多(太)助のこと。
本所相生町に店があった。)

長くなった。
ももんじや、は、また明日。









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