断腸亭料理日記2010

池波正太郎と下町歩き11月 その3

さて。

引き続いて、『講座』の11月。

昨日までは、虎ノ門の文科省敷地内にある
外濠跡の展示、それから第一回帝国議会の開かれた
議事堂が、今の経産省などのある一画であったことなど。

現代の地図


より大きな地図で 断腸亭の池波正太郎と下町歩き11月 を表示

江戸の地図(霞が関、内幸町側)


日本郵政の角から、再び虎ノ門交差点まで戻ってくる。

外濠通りを渡り、向こう側へ。
この通りは、なん度も書いているが、今は、桜田通りと
呼ばれている。

まっすぐ行くと、神谷町から飯倉、そして前回の、
東京タワー、野田岩へと続いている。

以前には、この通りの両側は、広く『西ノ久保』と呼ばれていた。

これは愛宕山、芝の台地の西の谷であったことからである。

また通りの名前も西ノ久保通りと呼ばれていた。
西ノ久保桜川町、西ノ久保明舟町、西ノ久保巴町などである。
天徳寺門前で、池波先生御用達でもある巴町砂場が有名。

さらに、西ノ久保葺手町、西ノ久保八幡町など、
飯倉までは西ノ久保であった。
この通りに面して西側は寺院、東側にはかつては刀剣などを扱う
古美術商が二十軒近くあった。
(以前の正式な町名表記では西久保と“ノ”が
入らなかったよう。)

「池波正太郎と下町歩き」なので『鬼平犯科帳』の関わりにも
少し触れねばなるまい。
このあたりだと、西ノ久保神谷町の[平野屋]という名前を
ご記憶の方はおられようか。
[平野屋]は扇屋で、平野屋源助という足を洗った
老盗賊の頭が昔の右腕・茂兵衛を番頭に据え、
手代一人に小僧一人、女中が一人の小さな店を営んでいた・・・。
お隣の店舗まで穴を掘り盗みをし、それをまた返す、というのを
やった二人、で、ある。
(平野屋源助が登場するのは、「殺しの波紋」「春の淡雪」「炎の色」など。)

と、まあ、そういった、西ノ久保通りの出発点でもある、
虎ノ門交差点。

西ノ久保通り=桜田通りも渡って、向こう側を歩く。

と、すぐ右側、ビルの狭間に、鎮座するのは?

そう、金毘羅様(こんぴらさま)

虎ノ門といえば、金毘羅様。
江戸人、東京人には、まあ、相当に有名なものであった。

ビルの谷間だが、今風に、お洒落に水なども流れ、
きれいに整備されている。

(境内には、灰皿があるので、付近を歩くサラリーマン達の
喫煙場所になってもいる。ここ、なんとなく寛げる。)

虎ノ門の金毘羅様だが、
正式には金刀比羅宮(ことひらぐう)。

そもそも。

起源はご存知、讃岐丸亀の金刀比羅宮。
1660年(万治3年)に丸亀藩主であった京極高和が、
当時藩邸があった芝・三田の地に勧請したのが始まりで
屋敷神、と呼ばれる種類に入るものであった。

1679年(延宝7年)、京極高豊の代に屋敷の移転とともに
現在の虎ノ門に移ってきた。

江戸期当時、全国的に金毘羅信仰は広まっており、
金毘羅講が多く生まれ、伊勢参りとともに金毘羅参りは人気があった。
これを背景に、文化年間の末ごろから、京極藩邸では
毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可するようになった。
町人への参拝を許す、というのは、丸亀藩のお情け、
なのだが、まあ、実際には、参拝客のお賽銭も期待していた、
なんということもいわれているようである。

そして、江戸期は金毘羅大権現と呼ばれていたが明治になり
金刀比羅宮というようになった。

本来は航海安全、大漁守護で、漁師、海運業者に信仰された。
主神は大物主神(オオモノヌシカミ)と崇徳天皇。

現在の社殿は1951年(昭和26年)再建。
総尾州檜造り、銅板葺き。古来の建築技法が再現され
用いられているという。これは、都指定歴史的建造物。

お百度石、鳥居は江戸期のもの。

この鳥居がちょいと、見どころである。
銅製で緑青が吹いた、よい鳥居なのだが、
その根元付近に寄進をした人々の名前が
彫り付けられてあり、きれいに読めるのである。

○○町○○屋○○兵衛、の類。
地元の西ノ久保、久保町、愛宕下、芝口はもとより、
芝神明、離れた日本橋の町名も見え、さらに、新吉原の
各町、おそらく大店の名はすべて刻まれている。
また、め組をはじめ界隈の鳶の組の名も、見える。

さて、この版画。


これは、有名な広重の江戸名所百景のうち、
『虎の門外あふひ坂』という題のものである。

上の地図をご参照願いたい。

外濠が埋められる前は、金毘羅様の前はすぐに、
お濠であった。そして、お濠は西に曲がり、
その濠沿いの道は坂になり、この坂は葵(あふひ)坂
と、呼ばれていた。そしてその向こうは、溜池。
(現代の地図に、重ねてみた。)

この絵の奥に、滝のようなものが見える。
これは、溜池の落口などと呼ばれていたが、
通称、溜池の“どんどん”。

これはなにかというと、外濠と溜池の間には堰(せき)が
設けられていたのである。目的は汐の満ち干による
逆流を防ぐため。
外濠に溜池から流れる音がどんどん、と聞こえることから、
この場所は“どんどん”と呼ばれていたのである。

ちなみに、この絵には裸の男が提灯を持って
走っているのが描かれている。
これは金毘羅様に向かう若い職人の技能上達を祈る
寒中の夜、日参の裸参り、だ、そうである。

さらに、ちなみに、江戸では“どんどん”はもう一か所。
これは神田川の飯田橋。
神田川はここで市谷方向の外濠と北向き、
江戸川橋方向の江戸川に分かれる。この分岐点、
江戸川側に“どんどん”があった。
目的は、同じである。


つづきは、また明日。







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