断腸亭料理日記2010

池波正太郎と下町歩き11月 その5

今回も、一週間、続いてしまったが、

『講座』の11月。

昨日は新橋の烏森神社と烏森の花街のことなど。





現代の地図


より大きな地図で 断腸亭の池波正太郎と下町歩き11月 を表示


江戸の地図(愛宕下・芝口方面)

さて。

烏森神社の路地から、駅前に出てくる。
目の前は、この前2Fにある鮨や鶴八へいったが、そのニュー新橋ビル。

左に曲がって、SL広場の方へ。
土曜日だが、このあたりは、雑踏。

ここ、ご存知のようにSLが置かれている。
型は、C11の292。
(私、鉄っちゃん、ではないので、詳細な説明は
できないが、この車体は1945年、終戦の年の製造だそうな。)

このSLは1972年(昭和47年)鉄道100年を記念して
置かれている。

その前はなんだったか。
なぁ〜んとなく、私もニュース映像などで見た覚えがあるが
戦後、ここにステージが設けられ、新橋駅前の名物であった。

さて。

新橋駅のこと。

開業当初は烏森停車場。1909年(明治42年)開業。

当時は、キィテキイッセイシンバシヲ、の、明治5年に新橋、
横浜間に日本初の鉄道が開業したが、こちらが新橋駅。

その、東海道線の新橋駅とは別に、烏森駅から
上野まで高架鉄道として始めて建設された。

1914年(大正3 年)東京駅の開業とともに、
こちらが東海道線の新橋駅となった。
今も各所に残る赤レンガのアーチは烏森駅開業当時からのもの。
(ここから上野まで。)

(ウィキペディアより)

さて、この写真は絵葉書なのだが、大正期の駅舎で
東側にあったもの。
東京駅と、よく似たデザインである。
ここ以外にも、神田の万世橋駅(昔の鉄道博物館)も
この形であったという。まあ、当時、国鉄も、デザインを
使い回していた、ということか。
また現在、駅構内には以前の鋳鉄製の柱が保存されている。

駅前までまわり、レンガアーチの脇を、烏森口前を通り、
さらに高架脇を進む。

と、東口からのガードにぶつかる。
このさほど広くない通りが、以前は日影町通りと呼ばれていた通り。

地図でおわかりになろうか。
銀座の中央通りからつながっている、今の第一京浜
=旧東海道の、一本西の裏通り。
これが江戸の頃から、日影町通りと呼ばれていた。

江戸、明治、大正昭和と百数十年経って、
上には新幹線をはじめ、JRの高架が走っているが、
日影町通りの位置はかわっていないようにみえる。

日陰町は、江戸の地図を見ていただくと
わかるが、通りの西側は武家屋敷。

一般に、ここのように通りの片側だけの町を
片側町、片町、と、呼ばれてきた。
江戸でも、この片町は、なんか所もあった。
例えば、片側が幕府の浅草御蔵で、御蔵前片町。
(これは今の蔵前)、あるいは、駒込の片町、飯倉にも
片町はある。

ここもそれにあたる。

日陰町の“日陰”というのは、あまりよい響きでは
ないのだが、西側が武家屋敷で日陰になるから、日陰町、と
呼ばれるようになったということである。

江戸の頃は通称で、明治以降町名になっており、
比較的最近まで、この通りは日影町通りと
呼ばれていた。

江戸の頃、この日影町の通りは、東海道の一本裏の道で、
商店が軒を連ね、繁華なところであったという。

参勤交代に従って江戸へきた国侍が江戸土産に
ふさわしいものをこのあたりで買い求めたともいう。

伽羅(きゃら)の油、書物、剃刀(かみそり)、
剣術道具、錦絵などを商う店、あるいは古着屋などが
軒を連ねていたという。
それが、明治以降は、古着やから洋服店などに
かわっていったが、江戸から引き続いてにぎわった
通りであったようである。
また、同時に商店だけでなく、当時流行の牛鍋、キャフェ
などもできるようになり、文明開化、そして、
今の新橋に続く、繁華な飲食店街になっていった。

今は、新橋らしい立ち呑みの酒場などもあるところだが、
旧日影町通りを少し歩く。
左側は大きなビル(別な意味で、片側町、で、ある)。

路地をいくつかすぎていくと、
大塚、と、書かれた、ビルが右側にある。

またまた、江戸の地図を見ていただきたい。

この場所は、江戸の頃、かの、東山金四郎、
東山の金さんの屋敷のあった場所。
(江戸といっても、金さんは、天保の頃の町奉行なので、
屋敷があったのは、その頃のことで、ある。)

さてさて、ちょっとだけ、金さんのこと。

お馴染みの名奉行金さん。
遠山左衛門尉影元、500石の旗本。

遠山左衛門尉は水野忠邦の天保の改革の頃、
1840 年(天保11年)の北町奉行になる。

当時南町奉行であった鳥居耀蔵とライバル関係にあり、
遠山は芝居小屋の廃止を唱える鳥居に対し
浅草猿若町への移転だけにとどめた。

これに感謝した芝居関係者がしきりに“遠山もの”を上演したのが
“名奉行金さん”のもとという。

その後、鳥居により一時失脚するが、鳥居失脚後、南町奉行に復職。
さらに水野失脚後、老中となった阿部雅弘からも重用された。
金さんは、明治まで能吏中の能吏として語られるほど
有能な官僚であったようである。

また“桜吹雪”で有名な彫り物。長谷川平蔵同様、金さんも
複雑な家庭環境から青年期、家を出て町屋で放蕩生活をしていた頃、
のことのよう。
大きさなどは諸説あるようだが、刺青を入れていたことは
確かなことのようである。

今この場所は大塚という靴の会社。
ここも古く、明治期軍靴を最初に手掛け成功したという。

と、こんなところで

つづきはまた、来週〜。







断腸亭料理日記トップ | 2004リスト1 | 2004リスト2 | 2004リスト3 | 2004リスト4 |2004 リスト5 |

2004 リスト6 |2004 リスト7 | 2004 リスト8 | 2004 リスト9 |2004 リスト10 |

2004 リスト11 | 2004 リスト12 |2005 リスト13 |2005 リスト14 | 2005 リスト15

2005 リスト16 | 2005 リスト17 |2005 リスト18 | 2005 リスト19 | 2005 リスト20 |

2005 リスト21 | 2006 1月 | 2006 2月| 2006 3月 | 2006 4月| 2006 5月| 2006 6月

2006 7月 | 2006 8月 | 2006 9月 | 2006 10月 | 2006 11月 | 2006 12月

2007 1月 | 2007 2月 | 2007 3月 | 2007 4月 | 2007 5月 | 2007 6月 | 2007 7月

2007 8月 | 2007 9月 | 2007 10月 | 2007 11月 | 2007 12月 | 2008 1月 | 2008 2月

2008 3月 | 2008 4月 | 2008 5月 | 2008 6月 | 2008 7月 | 2008 8月 | 2008 9月

2008 10月 | 2008 11月 | 2008 12月 | 2009 1月 | 2009 2月 | 2009 3月 | 2009 4月

2009 5月 | 2009 6月 | 2009 7月 | 2009 8月 | 2009 9月 | 2009 10月 | 2009 11月 |

2009 12月 | 2010 1月 | 2010 2月 | 2010 3月 | 2010 4月 | 2010 5月 | 2010 6月 |

2010 7月 | 2010 8月 | 2010 9月 | 2010 10月 | 2010 11月 | 2010 12月 |



BACK | NEXT |

(C)DANCHOUTEI 2010