断腸亭料理日記2010

池波正太郎と下町歩き 9月その5

さて。

今日もNHKの『講座』「池波正太郎と下町歩き」の9月。
昨日は『講座』で話さなかった、落語の中の吉原、
池波先生と吉原、など書いた。





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江戸の地図



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再び、大門の交差点に皆で戻り、土手通りを渡る。
ここからは暗渠になった山谷堀の跡をたどり、
隅田川まで歩く。

土手通りから一本北側の狭い通り。
おそらくこの通りの下が暗渠と思われる。

しばらくいくと、フェンスに囲われたところがある。
ちょうど、表通り、土手通りの向う側は、日本堤消防署の前。

フェンスの中は、よく見えないが、どうも暗渠の痕跡。
消防署方向にトンネルをコンクリートでふさいでいるものが見える。

消防署の吉原側が、今は花園通りといっているが、これは
吉原の南端で、以前は鉄漿(おはぐろ)どぶのあったところ。
鉄漿どぶは、この位置で、山谷堀に繋がっていたと思われるが、
これはその跡かもしれない。

真っ直ぐいって、通りにぶつかる。
右に土手通りの交差点の名前は、地方橋。
これは、むろん山谷堀の橋の名前。

ここからは、山谷堀暗渠の上は、桜の植わっている
山谷堀公園。
ここを歩く。

次の橋は紙洗橋。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

紙洗橋はこの付近に紙漉(すき)が盛んであったからという。
この付近で漉かれた紙は浅草紙と呼ばれ、屑紙でいわゆる透き返しの
紙であった(現代の古紙のリサイクル。江戸はリサイクル社会であった)。
この紙漉きから、吉原の張店(はりみせ)、格子の中に座っている
遊女を見て回るだけの、素見(ひやかし)という言葉が生まれたという。
これは紙漉きの職人が、紙を水に漬して(ひやかして)いる間に、
吉原の張店を見て回ったからというが、定かではない。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ここまでは、右側に土手通りが並んでいたが、ここからは
土手通りは、浅草方向に真っ直ぐいっている。
(名前も馬道、となる。)

次の大きな橋の跡は、吉野橋。
向う側左手には、都立浅草高校。
(以前は台東商業。)

吉野橋は江戸の頃には山谷橋と呼ばれていた。
この通りは、南千住、泪橋、小塚原、小千住と、
旧日光奥州街道の本道であった。

また、橋の両側に分かれていたようだが、
江戸名代の料亭、八百善があったという。

さらに山谷堀公園を進むと、最後の橋、
今戸橋になる。
橋の向こうは、隅田公園があり、隅田川。

ここまでくると、山谷堀もだいぶ広い。

通りを渡る。
この通りを左にいくと、橋場。
橋場といえば、剣客商売の大治郎の道場のあるところ。

通りを隅田公園へ渡る。

ここで、しばらく休憩。

隅田川の土手、堤防、水門まできてみる。
気温は上がっているが、さすがに川風が心地よい。

水門を覗き込んでみると、今まで気が付かなかったが、
どうもこれは、コンクリートで埋められて
しまっているようである。
どうなのであろうか、暗渠なのか、
完全に埋められているのか。正確な情報を私は知らない。

この山谷堀の河口跡の隅田公園は、広場になっており、
台東区のイベントなどが開かれたりする、

また、脇の木立に竹屋の渡し跡、の、碑があったりする。

隅田川の向うは、向島。
今は、桜橋があるので、すぐに渡れる。
そうとうに大きくなった、押上のスカイツリーがよく見える。

長命寺の桜餅、言問団子。
三囲神社。

振り返れば、山谷堀と、左には小高い待乳山。

今ではあまりピンとこないが、江戸の頃は絶景。
風雅な場所として名代であった。

先の八百善もそうだが、料亭、舟宿が軒を連ねていたのである。

休憩を終えて、待乳山聖天(まつちやましょうでん)へ。
ここは、人の作った丘ではなく、江戸以前からの
丘で聖天様が祀られている。

祀られているは、間違いか。
神様ではなく、仏様なので。

しかしまあ、日本人は、神様も仏様も一緒くた。
神仏習合というやつである。

この聖天様は子授けの神様(また、神様だ。)として
信仰されている。

我々夫婦も15年ほど前であろうか、
子供ができないので、なん年か、願掛けに初詣に
きたものである。(甲斐はなく、子供はできなかったが。)

聖天様は、二股の大根と巾着がシンボル。
境内のあちこちに、大根と巾着は描かれている。
巾着は聖天様の持ちもの。二股大根は女性を表している。
(リアル、で、ある。)

大根が売られており、願をかけるものは、買って
奉納する。
正月の7日には、この大根はふろふきにして、
信者に振舞われる。
私達は、奉納はするが、このふろふきまでは
食べにこなかったが、、。

参道の石段を上がり、皆さんとお参り。

この待乳山聖天の本堂のある小山の一番上からの隅田川の眺めも
よかったらしいが、今では、隅田川は見えることは見えるが、
そんな面影は、ない。


さてさて。

中清の天ぷらまで、まだ少し。

今週はここまで、つづきはまた来週。









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