断腸亭料理日記2011

池波正太郎と下町歩き 8月 その5


さて。

『池波正太郎と下町歩き』の8月。

鶯谷駅から歩き始めて、
上野の山を縦断し、西郷さんの銅像、
清水観音堂まできた。。





観音堂から、不忍池側に石段を降りる。
降りたところは、黒門、上野公園の広小路口から
真っ直ぐきている道。

本来の予定は、ここから、不忍池までさらに
石段を降りて、弁天堂を右に見て、
池の青々とした、蓮の葉と、ところどころに見える
花を見ながら、歩こうと、思っていたのだが、
既に予定の時間もすぎている。

お疲れと、お腹の減った皆さん。
一刻も早く、といった、面持ち。

OK。

不忍池へは降りないで、
真っ直ぐ、広小路に向かおう。

左側に西郷さんの銅像のある上の広場へ上がる階段。
ここが、その昔、黒門のあった場所。

先代文楽師匠が住んでいた町だが、
黒門町という町名があった。
その由来の門である。

江戸の地図を見ていただくと、
ここには、黒門ともう一つ、御成門というのが、
書かれている。むろん、御成のための門、で、ある。

ここは、随分と幅が広いが、ここに二つ。
どんなものであったのであろうか。

屋根のある楼門のようなものであったのか。
いずれにしても、大きなものであったのであろう。

上野山内は、花見を含めて、江戸庶民も自由に入ることができた。
ただし、昼間だけ。
暮れ六つの鐘が鳴ると、山同心という、寛永寺の役人(武士)によって
追い立てられた、という。
そして、この門も閉められたのであろう。

そして、この門もまた、彰義隊の上野の戦いで、
焼かれている。

その当時の上野。

今の、ヨドバシカメラがあって、
JRのガードのあるあたり。

上野山下と呼ばれていた。

地図に提灯店、仏店、と書き入れたが、
裏へ入ったところだと思うが、このあたりに、
江戸の頃は、けころ、と、呼ばれた、岡場所があった。
(けころは、ここの固有名詞ではない。
一般に、安い岡場所、いや、岡場所に限らず、
吉原でも、安いところは、こう呼ばれていた。)

鬼平では、伊三次の馴染みの店がここにあり、
また、伊三次の最期を迎えるきっかけになったところ、
でもある。

山下の表通りには、老舗の料理屋があり、
彰義隊の戦いでは、この料理屋の二階から、官軍は、
彰義隊が立てこもる上野の山に、大砲をぶち込んだ、と、いう。

当時新式の大砲である。
一たまりもなさそうである。

ともあれ。

交差点まで出てくる。

広小路に向かって、左手向こう側に、みはし、
という甘味や、が、ある。

ここには、昔、不忍池から忍川という川が流れ、
広小路には、三本の橋が架かっていた。

これが、三橋。

甘味やさんにのみ、その名が残っている。

将軍御成には、真ん中の橋を使ったという。

さて、広小路。

上野広小路だが、少し前までは、下谷広小路
といういい方の方が、普通であった。

江戸の地図にあるように、ここは、
名前の通り、江戸の頃から広小路であった。

これは、江戸の多くの広小路と同じように、
火除け地、という意味合いもあったのだろうが、
上野寛永寺前で、警備の都合もあったのであろう。

将軍御成の時以外は、ここには、
両国などと同様、小屋掛けの芝居や、見世物、
飲食店、土弓場、講釈場等が建ち、物日(ものび)や
花見時には大いににぎわった、という。

御成は、月に一度以上もあったと思わるが、
その時には、とっとと、それらの店や小屋は、
取り片づけなければならなかった。

また、取り片づけることを条件に、
ここに店を出すことが許されていたのである。

アブアブ前の交差点、右側の角、今はビルに入っているが、
黒船亭という洋食や。ここも老舗。

向うに渡って、右に入ると、池之端仲町通り。




ここで、切ろう。

つづきはまた明日。







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