断腸亭料理日記2011

池波正太郎と下町歩き1月 その9


引き続きいて『講座』の1月。




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江戸の地図




昨日は、神田青果市場の明治以降と、万惣フルーツパーラーまで。

池波先生は、酒も呑むが、甘いものもお好きであった。
万惣のホットケーキは子供の頃から親しんだ懐かしい
味であった。
私の場合、甘いものもきらいではないが、
自らこういうところへは、入らないので、万惣にも
入ったことはない。

万惣フルーツパーラーのある須田町交差点を、
万世橋方向へ、靖国通りを渡る。

さらに、中央通りも渡り、万世橋までくる。

万世橋というのは、中央通りが神田川を越える橋である。
今は、橋の南詰すぐ上にJR中央線のガードがあり、中央通りの
上をまたいでいる。

南詰東側には、中央線のガードとの間に、
肉の万世、のビルがある。

その昔の万世橋は?

万世橋というのは、実際のところ、明治以降にできたもので
江戸の頃は、今の万世橋と昌平橋の間あたりに、
筋違橋と、筋違御門があり、この位置に橋はなかった。

筋違橋、筋違御門は江戸初期、1676年(延宝4年)にできている。

明治になり、1872年(明治5年)筋違御門が取り壊され、
翌年、筋違橋の場所に石造りの橋が完成した。

当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名したが、
次第に、まんせいばし、という音読みが一般化した。

余談だが、大久保忠寛という人をご存知、で、あろうか。
大久保一翁とも呼ばれる。幕末、目付、若年寄など
幕閣の要職を務めた、幕臣である。
勝海舟を見出した人、と、いう説明がわかりやすいかもしれない。
海舟などとともに江戸無血開城に尽力もし、明治に入り、
新政府でも働いていた、数少ない幕臣といってよかろう。

第五代の東京府知事になっていたのである。

この万世橋は、いわゆる二重のアーチ橋であったので、
眼鏡橋とも呼ばれ当時の東京人に親しまれた。
日本初の石橋ともいわれる。

しかし、上流の昌平橋が万世橋ができた年、洪水で流され、
1896年(明治29年)に復旧される迄は、現在の万世橋の位置に仮木橋が架けられ、
それが昌平橋と呼ばれた。

つまり、万世橋と昌平橋の位置関係が反対であった。
こんな時期があったのである。
私も知らなかった。

昌平橋の方は、むろん、湯島の聖堂、昌平黌にちなむが、
(昌平坂があり、その坂下の橋、で、ある。)
今の万世橋の位置で、昌平橋は、いささか、妙、では、ある。

1903年(明治36年)、現在の位置に新万世橋が架け直され、
元万世橋と名を変えた上流の眼鏡橋は3年後、撤去された。

新万世橋は1923年(大正12年)の関東大震災で被災し、
大震災後の帝都復興事業に指定され1930年(昭和5年)
現在のアーチ橋に架け替えられた。

なかなか、激動の歴史、で、ある。

さて。

その万世橋の南詰西側。
中央線のレンガ造りの高架があり、そのレンガの高架が
少し大きな壁になっているところがある。

東京で生まれ育たれている方は、ご存知であろうが、
今は大宮にあるが、少し前まで、ここに
JR(国鉄)の鉄道博物館があった。

そして、さらにその前は、と、いうと、
中央線の万世橋駅、という駅があったのである。

万世橋南詰のレンガの壁の上には、その万世橋駅の頃の
引き込み線のスペースだったのである。

そもそも万世橋駅は、1912年(明治45年)国鉄の中央線の
始発駅として開業。


東京駅、新橋(烏森)駅と同様に辰野金吾の設計で、赤煉瓦造り。
駅舎は神田川とは反対側、今は、工事中になっているスペース、
須田町側にあった。

中央本線の始発駅であり、ここから両国駅方面への総武線を
通す計画があったらしく、1等2等待合室・食堂・バー・会議室等までも
備えていた、と、いう。立派なものである。

1919年(大正8年)、万世橋〜東京が開通。
中央本線の始終着駅としての役割は7年で終わったのではある。

しかし、この万世橋駅前、須田町交差点は、明治から
市電、都電のターミナル駅でもあったのである。
これも、都電が走っていた頃の東京下町をご存知の方は、
よく知っていることで、多くの系統がここを始発駅にしていた
のである。

このため、万世橋駅前は、飲食店が集まり、
寄席(現万惣脇の路地は落語の定席、立花亭が名代)などもあり、
当時の一大繁華街であった。

1923年(大正12年)の関東大震災で駅舎が焼失し、
簡素な駅舎が再建された。
しかし、徒歩で行ける距離に、神田駅及び秋葉原駅ができ、
万世橋駅の乗降客は減少していった。

1936年(昭和11年)、東京駅から鉄道博物館が移転。
1943年(昭和18年)駅はついに、廃止された。

万世橋駅には、こんなものもある。

地下鉄。

今の、銀座線である。
銀座線にも万世橋駅があった、のである。

浅草〜上野間に東京初の地下鉄を開通させた「東京地下鉄道」は
新橋を目指して中央通りを延伸を続けていた。

神田川底を通すには水路を一時変更する必要があり、
また交通量の多い万世橋も掛け替えなければならない等、
長い工期が見込まれたため、それらが完工するまでの
暫定的なサービスとして1930年(昭和5年)に仮駅として開業した。
しかし、これも、翌年神田駅までの延伸がすむと廃止された。

銀座線の末広町と神田駅の間には、駅の痕跡があるらしい。
しかし、私も、なん度も注意して見てみるのだが、
いまだに確認できていない。

さて、万世橋駅といえば、もう一つ。

広瀬中佐銅像、の、こと。
旧臘、NHKのドラマでもやっていた「坂の上の雲」は
ご覧になった方も多いかもしれない。
日露戦争、旅順口閉塞作戦で、戦死した、広瀬中佐。
上の絵を見ていただくとわかるが、中央にあるのが、それ。
この広瀬中佐と、杉野兵曹長の像が、戦前にはこの駅前に
あり、子供でも知っているランドマークであった。
(標識に隠れて見ずらいが、銅像の下の方にいるのが、
杉野兵曹長である。なにやら、身分が違う、とでもいうような
位置関係である。)

戦前、広瀬中佐は、名誉の戦死を華々しく飾った、ということで、
軍神、として崇められ、子供達の、いわゆる、軍国主義教育に
使われたのである。それこそ、子供でも知っている存在であった。

この広瀬中佐像は、、戦後どうなったのか。
私も、今回調べて知ったのだが、
「戦犯銅像」として、GHQによって撤去された、ということなのである。

「戦犯銅像」という言葉もおもしろい。
そんな言い方があったのである。

この銅像のあった位置は、おそらく、
今、工事現場になっている、交差点の角、あたり、と、思われる。

長くなった、明日は、いせ源へ。









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