断腸亭料理日記2012

丼もの考察 その3

引き続き『丼もの考察』

昨日は、明治20年代まで。
この頃、鰻丼(うなぎどんぶり)に加えて、
天麩羅丼(てんぷらどんぶり)が、定着していた。

次。

明治36年。

見出しは『鰻丼と天麩羅の詐欺』。

なんだか、食い逃げしか出てこない。

京橋区霊巌島長崎町に住む男(36歳)。
(今の中央区新川。)

こ奴が日本橋区小網町の蒲焼商某で、近所に住む
荒井某方からきたとして、鰻丼(うなどん)を注文。
その後、荒井方に先回りし、横取りをした。
同じ日の夜11時頃、今度は、日本橋区北島町
(茅場町、兜町あたり)の天ぷら屋に入り、同じことを
しようとしたが、露見し、逃げた。
同深夜1時頃、兜町付近の公園を徘徊しているところを
警官に認められ日本橋署へ引致され、前記を自白した、
と、いう。

前にもあったような手口、糸瓜野郎に似ている、か。
こういうの、当時よくあったのだろうか。

今やろうと思うと、誰かを名乗り
出前を頼む電話をし、その家(または部屋)の前で
待っていればよいので、簡単なような気もする。

ともあれ。
ここの記事でのポイントは、細かいことだが、
それまで、うなぎどんぶり、と、仮名が振られていたのが、
うなどん、と、振られ、現代の通称が出てきているところだろう。

さて、次。

翌明治37年。
(明治は45年まで。)
ちなみに、この年は、日露戦争開戦の年。

見出しは『天麩羅』。
(シンプル!)

本所区中之郷竹町(今の墨田区吾妻橋)に住む、立花某。

浅草区千束町二丁目の天麩羅屋某へ、公園六区の
楊弓(ようきゅう)店、花遊(かゆう)から来た、といい、
天丼(てんどん)二人前を注文し、出前を途中でもらおうとして露見。
御用となったという。

これも、同じような手口。

そして、鰻丼に続いて、天麩羅丼(てんぷらどんぶり)も
短縮された天丼(てんどん)と、今の呼び方になっている。

この、短縮形の定着というのは、丼ものが
より身近になったということを意味しているように
思われる。丼に入ったご飯と○○で、○○丼。
このコンセプトが出来上がったといってもよさそうである。

さて。
ここで私が注目したいのは『公園六区の楊弓店花遊』
なのである。

ちょっと、丼の歴史からは離れるのだが、
あまり知られていない浅草の歴史、書いておきたい。

浅草(公園)六区をご存知の方はどのくらいおられようか。

ロック座のあるところ、といえば、ほとんどの方は
あ〜、と、いうことになるかもしれない。

今の浅草六区界隈は、往年の大盛り場の頃からすれば、
さびれた感じは否めないが、それでも土日ともなれば、
観光客に加えて中央競馬のウインズもあるので、
けっこうにぎわってはいる。

どうであろうか、この明治後半の頃の
浅草六区といえば、もう盛り場とすれば
都内随一のところであっただろう。

芝居小屋、寄席、始まったばかりの活動写真の劇場等々が
軒を連ねていたところ。
(浅草オペラ、というのは、大正の頃なので、
もう少し後になるのか。)

それ以前の浅草を少しだけ見てみる。

江戸の頃の浅草。


現代


より大きな地図で 浅草六区(元)十二階付近 を表示

江戸の頃、浅草寺の境内はもう少し広かった。
今言っている、六区なども境内に含まれていた。

江戸の頃の盛り場は、先ずは仲見世。

今も仲見世はご存知のように、土産物を売っている
門前商店街だが、当時はいわゆる茶汲み女のいる水茶屋や、
楊枝(ようじ)を売る店が多くあった。
仲見世の茶汲み女は浮世絵などにも描かれるほど
江戸随一の美人の宝庫であったのだが、一方で、金を出せば
連れ出せた、ともいう。
また、楊枝も浅草仲見世の名物であったが、
これは今の楊枝ではなく、房(ふさ)楊枝と呼ばれ、
朝、歯を磨く、歯ブラシの役割のもの。

そして、もう一か所の盛り場は、
奥山といわれていたところ。

浅草寺の本堂の北西裏の境内。
今の花やしきがある付近と、思ってもらってよい。
(花やしきは幕末の嘉永6年の開業である。)

境内だが、いや境内だからというべきか、
江戸の頃のこのあたりには、小屋掛けの芝居小屋や
見世物小屋、今の屋台店にあたるような大道商人、
落語にもあるが、がまの油売りなどの、
大道芸人が商売をするような盛り場であった。

そんな浅草寺界隈であったが、明治に入り、
上野の山(寛永寺)、芝の増上寺などと
並んで、浅草寺の広い寺域がすべて公園として
指定された。
この三ヶ寺は徳川家の菩提寺、祈願寺などで
徳川家とほぼ一心同体といってよいほどの関係にあり、
江戸城が接収されたのと同じような意味で
明治新政府及び東京市の管理化に入れられたのである。
(上野、芝ともに、今でも公園、であるが。)

そして、浅草公園内は、一区から七区まで区に分けられていた。
六区という呼び名は、ここで生まれている。

浅草の公園指定はその後解除されたが、その時の六区が
今でもあのあたりの呼び名や町内会の名前としても、
残っているのである。

そして、ロック座やウインズのある六区のメインの通り
の北側は今、ひさご通りというアーケードになっている。
(米久なんというすき焼やの老舗があり、祭用品やさん、
出口付近に、私の行きつけの履物やさんもあるが。)

ところで、凌雲閣、浅草十二階、というのを聞いたことがあろうか。


こんなもの、で、ある。

東京タワーや、今年開業のスカイツリーの元祖のようなもの。
明治23年開業。浅草のランドマーク、十二階という、
当時としては、高層ビル。むろん電波塔ではなく、
観光目的だけのビル。
(関東大震災で半壊後、取り壊しになった。)

凌雲閣のあった場所は、現代では碑もなにもなく、
なんの痕跡も残っていないが、先の米久の西、あたりである。

で、やっと、先の『楊弓店』にいきあたる。


楊弓店のこと、また明日、もう少しつづく。








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