断腸亭料理日記2012

江戸博・特別展『日本橋』その3

今号を持ちまして、2000号になりました。
まあ、毎日書いているので、時間の問題で、2000には
到達するものではありますが、今までお付き合いを
いただいた方、たまに読んでいただいた方、その他、
一度でも読んでいただいた皆様に、深く御礼申し上げます。

この日記をインターネット上に書き始めたのは、98年。
3年のブランクがあり、メルマガ、はてなのブログ、
本編と今の体制で書き始めたのが2004年の4月。
2000号はここからの数字。(数え間違いは多数あるはず。)

誤字脱字、誤謬その他、多々あることは承知をいたしており、
書き続けていることだけが取り得のようなものではあります。
今後ともご寛容にお付き合いいただければ幸いです。

断腸亭

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と、いうことなのだが、
内容は、昨日の続き。

江戸博の『日本橋展』。

昨日までは江戸の頃の日本橋。

今日は明治以降の日本橋。

最初はこれ。
明治3年。
歌川芳虎という人の「東京日本橋風景」というもの。


一見、あまり江戸の頃と変わっていないようだが、
たった3年で、実は大きく変わっている。

高札場は、まだ、ある。
橋自体も木造の江戸のもののまま。

しかし、西洋風の馬車、それから、高札場の下にリヤカーのような
人が曳いている箱のようなもの。
後のもう少しスマートなものではないが、
これが人力車である、という。
ちょうど、この高札場の隣に人力車が営業許可を得て
店を開いた、とのこと。

展示で指摘されていたのは、江戸の頃との
書き込みの違い。

橋だったり、まわりの町並みよりも、ここを
歩いている、通っている人々にフォーカスがされている。
あたり前のことかもしれぬが、江戸からかわらないもの、
例えば魚河岸だったりにはフォーカスされていない。

ある意味、このあたりにもう既に、
明治以降の日本橋、いや、東京という街を
象徴しているように思われる。

新しい西洋文明を貪欲に取り入れ、文明開化にひた走って
江戸のものをどんどんと壊していった、という。

ともあれ。

日本橋はこのあとすぐに、丸い日本式の橋から平らな
西洋風の木造の橋に架け替えられた。

馬車に加えて、軌道上を走る鉄道馬車が通る。
このためにも、平らな橋である必要はあった。

鉄道馬車が市電に代わる。

そして、いよいよ明治44年(1911年)に石造りの橋になる。
これがなんと、今の橋。(つまり、去年で架橋100年。)
この時はやはり大イベントで、親子孫、三代の夫婦が
渡り初めをした、と、いい、またちょうど私製葉書が許可された
だかで、夥(おびただ)しい数の日本橋の絵葉書が売り出された
ようである。

その後、関東大震災にも耐え、東京大空襲の
爆撃にも耐え、残り、1999年には重要文化財になっている。

展示では触れられていないが東京オリンピックを前に、
日本橋の上には、首都高速が架けられ、日本橋から
青空がなくなった。

まあ、都の管理下にある江戸東京博物館で
この件について触れることはあえてしなかった
のではあろう。

あえて触れない、ということで、逆に
考えがわかるような気もするが。

肯定的な立場であれば、歴史として触れてもなんら
問題はなかろう。(まあ、江戸博の関係者は、そう思っていると
信じたいが。)

小泉政権の頃に、首都高の地下化の案も出たと聞くが、
今の日本にはもう既にその余裕がなくなってきている、の、か。

時間がかかってもよい、忘れないでほしい。

日本橋に青空を帰してやらねばならない。

私は、この日記を書いているかぎりは、このことは
言い続けなければいけないと、思っている。


重要文化財が、こんな状態でのままでよいとは、
どう考えても思えないではないか。

まして、日本橋は、400年以上も前からのこの都市、
江戸・東京の中心であり顔であり、象徴であった。

京都と比べると、このあたり、明確に東京は違っているだろう。
京都人は、絶対にこんなことはさせてこなかった。
同じ東海道五十三次の終着点の三条大橋は、青空の下に
今もある。

東京ならよいのか!、で、ある。

このことは、先に書いたように、明治以降、江戸を壊しながら
富国強兵、文明開化、戦後は高度経済成長に、突き進んできた
日本という国の首都東京の有様を象徴している。

だが、東京オリンピックを前にしたあの頃、、
都心を高架のハイウエーが走っている光景は、
未来っぽい感じで憧れの対象だったのかもしれない。
我々の父や祖父にあたる当時の東京人自身もそう思ったであろう。

しかし、私なども、明大前の中央高速・甲州街道沿いに
住んでいたことがあるが、街中の高架は日陰になるだけで
空気も悪く、景観上もよいことは一つもなかった。

もうそろそろ、よいではないか。
当時はわからなかったことも、いろいろわかってきたのだから。

そして、むろんのこと、東京にだって、
江戸からの歴史があることを思い出してほしいのである。

さて。

最後に、ちょっと余談めいているが、今回の展示で
おもしろかったものをもう一つだけ、挙げておきたい。

なにかといえば、「隅田川風物図巻」というもの。

江戸中期のもので、日本橋から日本橋川を下り、隅田川に出て、
そこから上流へ、新大橋、両国橋、蔵前、浅草、向島、木保寺、
あたりまでを描いた長い絵巻。

うしろから光をあてて夜の情景を表現したり、
見世物用のからくり絵巻に使われたもののよう。

個人的には、地図、ではなく、鳥瞰図であるため
川沿いの家々を含めた風景が、細かく書き込まれており、
とても参考になった。

つまり、繁華街は繁華街のように、大店は大店のように
描かれている。

例えば、両国あたり。

両国橋の両側は、見世物小屋などが立つ盛り場であったというが、
実際にどんな感じであったのか。
特に、東詰、今の両国、さらに南側は今では静かな住宅地で、
そんなことはとても想像ができなかったのである。
見世物小屋らしきものもあれば、その周辺には構えの大きな
大店らしく見えるもの並んでおり、この界隈の繁盛ぶりが
実感できるものであった。

また、夜の風景もあるので、両国は、花火。
この絵巻に描かれている花火は、今のような大きく円形に
開くものではなく、高さもそう高くなく、色も一色で、
今の子供用の打ち上げ花火が少し大きくなったような
ものが描かれていた。

こんなところで、江戸博『日本橋』+α(断腸亭の意見込み)、
一巻の読み切り。


やはり、日本橋を大切にしようよ!、で、ある。

偶然だが、2000回に適切な話題だったかもしれない。





江戸博






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