断腸亭料理日記2012

東京スカイツリー界隈のこと その3

引き続き、スカイツリー界隈。

スカイツリーのふもと、というのか、根本、というのか、
そこに近い、京成橋から再び、東武橋に向かって、
北十間川沿いの道を自転車で走る。
いや、走れない。
人が多くて。

川は噴水のようにも見えるが、浄化のためであろうか、
下から空気を吹き上げているようで、水面にはところどころ、泡。

この川沿いの道は、急拵えのような、カフェやら、
なぜか肉まんを売っていたり、なにやら、
観光客目当ての店が営業をしていたりはする。

現代の地図


より大きな地図で 断腸亭料理日記/押上・業平橋 を表示

江戸の地図


下町である、業平、押上のこと、
どんな街になっていくのか。
たのしみのような、怖いような、、。

この界隈のことは、やはり、一般にはあまりまだ
馴染みが少ないのではなかろうか。
スカイツリー効果で注目も集まっている今、
もう少し書いてみたい。

2007年なのでもう4年前、この界隈は
歩いて、少し詳しく書いてもいる。


業平、といえば、在原業平にちなむ、という話は
最初に書いたが、私などは、昭和の落語家、
古今亭志ん生師も思い出す。

志ん生師の著書に『なめくじ艦隊』というものがある。



志ん生師は型破りの噺家、いや、本当は落語家らしい落語家、
といってよい人であったと思う。

若い頃、あまり売れなかった、ということもあり、
師匠をなん度もかえる、一時は落語家から講談師に
かわっていたこともあった。
その上、腰が定まらないというのであろう、
引越しの回数というのも、相当に及んだ。

当然のようにいつも金がなく、家はそうとうに貧乏。
お内儀(かみ)さんなどはそうとうに苦労されている。

その志ん生師が一時期、業平の長屋に住んだことがあった。

先の『なめくじ艦隊』というのは、その頃の話。

このあたり、業平、押上、いや、墨田区南部、広く本所一帯は
堀も多いが、ちょっと大雨でも降ると、すぐに水が出るような
排水のわるいところであった。

本所に蚊がなくなって大晦日

なんという川柳もあった。
(本所はじめじめしているので、蚊が多いのが名物で、
蚊がいなくなったと、思ったら、もう大晦日であった、と。
字足らず、のようだが、本所は、ホンジョウ、と読む。
今はホンジョだが、古くは、ホンジョウといっていた。)

そんな本所の業平の長屋に住んでいた志ん生師なのだが、
このじめじめ、のせいで、家の中の壁に、たくさんなめくじがいて、
その、壁を歩いた痕が、まるで戦艦の艦隊とその航跡群のように見えた。
これを『なめくじ艦隊』と、いったのである。
(想像すると、ちょいと、気持ちがわるいが。)

そんな業平、押上。

さて。

今まで見てきたのは、スカイツリーの南側の話、で、ある。
では、北側というのは、どんなところなのか。
これもみておかなければいけない。

もう一度、江戸の地図を見ていただきたい。

東西に流れている源森川・北十間堀の北側は、
水戸藩邸が川沿いにあるが、基本は緑に塗られており、
小梅村、中之郷村、寺島村などと書かれ、田圃。

江戸の頃、江戸町奉行所の管轄するいわゆる『町』であったのは、
北十間川の南側で、その北側は江戸近郊の農村。
こちら側が開けたのは、明治以降、ということになる。
(ちなみに、この南側が本所という範囲になる。)

村、なのだが、ここは向島、という呼び方が江戸の頃から
されてきていた。

向島といえば、聞いたことがある方も多かろうが、
芸者さんのいる花街。

今も、一応のところ、料亭がなん軒かあり、
芸者さんをマネージメントする見番もある。

これが、江戸の頃までさかのぼる。

江戸の地図には上の真ん中あたりに、大きく『料理家大七』というのと
『料理家武蔵屋』という二軒の料理茶屋の名前が
書かれているのがわかると思う。
(むろんこれらは実際の縮尺ではなく、
こんなに大きな区画を占めていたのではない。)


これは広重で、幕末も近い、天保の頃。
『江戸高名会亭尽 向島 大七』という絵。
この大七という家は、いけすの鯉が名代で、洗い、
などを食べさせた、という。

この浮世絵のシリーズは江戸の有名な料理茶屋などを
絵にしたものだが、その中にも向島は、この大七以外にも、
先の武蔵屋、さらに隅田川土手すぐ下にあった平岩。
さらに、この地図よりは北になるが、
木母寺(もくぼじ)境内の植半という家は
歴史も古く、向島では最も名高かったという。


『江戸高名会亭尽 木母寺雪見 植木屋』

池波作品、鬼平などでは『大村』なんという名前で
向島の料理茶屋は登場するのでご記憶の方もあるかもしれない。

当時の向島といえば、春の花見に加え、
田園の緑の多いところに、水が引かれ、
墨堤から秋葉神社あたりまで、こうした有名料理茶屋が点在し、
大身旗本から商家の旦那衆など、お金もあり、また、
一流の文化人達が集うところであったのである。

今、このあたり、向島の料亭街はあるにはあるが、
どちらかといえば、人家の密集した下町の中に埋もれるようにあり、
また、街全体としても、入り組んだ細い路地で、
整理されない下町、というイメージであろうか。

こんなところ、今の街の風景と重なるのは、根岸。
江戸から明治までは、上野の山影で、商家の別荘(寮)などが
点在していた風雅な根岸の里、今の鶯谷あたりである。

どういう歴史をたどって、向島がこんな風になったのか。
このあたり、もう少し続けてみたい。





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