断腸亭料理日記2012

平成中村座

五月大歌舞伎夜の部 その2

引き続き、平成中村座五月、夜の部。

次。

勘三郎の口上。

これは、やはりこの小屋ならでは。
観客との距離が近いし、勘三郎のキャラクターは
小屋の中を温かい雰囲気で、包んでしまう。

この口上で、勘三郎とともに、現役最高齢の女形という
役者が舞台上に登場していた。
(90いくつであったか。)
最高齢ということで、座頭の口上に花を添える、ということ。

90歳を越えた女形ということは“ほんとうは”、
お爺ちゃん、で、ある。

これが左にあらず。
とても、お爺ちゃんには見えない。

見えるとすれば60ちょいの、お婆ちゃん。

勘三郎先生はこの人は“真女形(まおやま)”なんです、と、
説明をしていた。

これは、ちょいと、びっくり。
真女形。

実は、私は始めて聞いた言葉。

女形というのは、女性として芝居には出るが、
普通は、芝居が終われば、男に戻る。

真女形というのは、普段も、女物の着物を着て、
女性として暮らす。

前に書いた、江戸末期の岩井半四郎なんという
スター女形は、この真女形であった。

最近で、有名どころでは、2001年に亡くなった、
六代目中村歌右衛門がその例のよう。

そう。

こういう真女形の役者、特に若い人が出てきたら
おもしろかろうと思うのだが。

さて。

座頭口上のあとは、踊り。

志賀山三番叟(しがやまさんばそう)という、なんでも
由緒あるものとのこと。

ほぼ、勘九郎一人が踊る。

なん度も書いているが、素養がなく、ほぼわからないのだが、
わからないながらも、なんだか、すごいのだ、ということ。
なにがといえば、勘九郎の踊り。

歌舞伎の中村勘三郎家、あるいは市川團十郎家といった、
名跡の家は、踊りの家元でもある。

中村勘三郎家は、江戸開府後、さほど時間が経たぬ頃、
当時は、猿若勘三郎を名乗っていたが、江戸中橋(なかばし)、
今の、東京駅八重洲口を真っ直ぐいって、
中央通りにぶつかったあたり、で、江戸で最初の芝居の櫓を
許された。つまり、中村勘三郎家は、江戸歌舞伎の祖、である。

一方、歌舞伎の元祖といわれている、出雲御国(いずものおくに)にしても
歌舞伎踊りといわれており、当初、歌舞伎は芝居ではなく、踊り
であったのであろう。

中村勘三郎家は、猿若流という踊りの宗家、でもある。
この猿若流は江戸で最も古い踊りの家ということになり、
花柳も藤間も皆、ここから別れていったものと、勘三郎も
口上で言っていた。

そういうものを背負って、勘九郎も、修行をしているわけである。
『鶴瓶の家族に乾杯』に出ていた勘九郎が、広島で地芝居(神楽)を
継承している人々と踊りの話をしているのを視たことがある。
ここで勘九郎は夢中になって、楽しそうに、踊りのことを話していた。

今日の踊りは、手に持った鈴をまったく鳴らさないように
踊らなくてはならない、と、勘三郎が口上で説明をしていた。
勘九郎の持った鈴は、実際に、音を出していなかった。
やはり、ここまでになるには、なまなかな修行ではないのであろう。

あ〜、この人はほんとうに踊りが好きなんだなぁ、というのが
わからないながら、感じたことではあった。

さて。

次はお待ちかね、『梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)』、
通称『髪結新三(かみゆいしんざ)』。

その前に、弁当。

今日は、浅草今半の牛肉弁当。



濃い味で、うまい。

さて。

『梅雨小袖昔八丈』。作は、かの黙阿弥。
初演は明治六年、東京中村座。

昨日も書いたが『髪結新三』は落語にもある。
歌舞伎の演目には、落語でも演(や)るものが、
そう多くはないが、存在する。

例えば、落語では人情噺で有名な芝浜。
歌舞伎では『芝浜の革財布』という世話物狂言になる。

今回の『髪結新三』はもともとは、講談、あるいは義太夫が
始まりのようである。

講談では『白子屋政談(または騒動)』で、落語とも重なるが
いわゆる政談ものといい、名奉行大岡越前などお奉行様が裁く話。
『白子屋』は講談では今でも演じられるもののよう。

さらに、もとは、やはり実際の事件で、
享保の頃、大岡越前守が裁いたものであったようである。

どんな事件かというと、当時、大店であった
日本橋新材木町の材木問屋、白子屋(白木屋とも)。
ここの娘、お熊が恋仲であった店の番頭忠八と
持参金目当てでもらった婿を、母・常(つね)と共謀して殺害した
という事件。

忠八とお熊は引き回しの上、獄門。常は遠島。
お熊が引き回しの際に着ていた着物が、黄八丈だったというので、
この芝居の外題『昔八丈』がついているとのこと。

大岡裁きと、いうと落語にもある『三方一両損』などは
有名である。しかし、ご存知かと思うが、お奉行様が
直に裁き立ち会うということはほとんどなく、皆、創作。

ただし、この事件だけは、自ら裁いたということが
史実としてわかっているらしい。

当時、江戸の風紀は大分に乱れており、それを
ただすために、いわば見せしめとして、お奉行様
自らが出座して重罪を言い渡したということのようである。


と、いうことで、今日はここまで。
また明日。







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