断腸亭料理日記2014

初芝居 寿初春大歌舞伎 その3

1月3日(金)

引き続き、歌舞伎座の初芝居。

一つ目の演目「仮名手本忠臣蔵」『山科閑居』。

前半部分。

力弥の許嫁の小浪とその母戸無瀬が訪れ、祝言を求めるが
由良之助の妻、お石は断る。
ここで戸無瀬、小浪の母娘は自害をしようとするが、お石は
とめて、祝言を受け入れる。しかし、そのかわりに小浪の父、
加古川本蔵の首を要求する。
そこに、虚無僧姿の加古川本蔵本人が現れる。

と、ここまでが話として区切り。

この前半部分は小浪の母、戸無瀬の独壇場といってよかろう。

この戸無瀬という役は、歌舞伎の演目の数ある女形の役の中でも
最も重い役になっている、という。

女形の最上位は立女形(たておやま)というそうな。
(ちなみに、玉三郎が今はこれにあたる。)

今回の戸無瀬は、坂田藤十郎。
藤十郎は、女形専門ではなく、立役もするが、
この人は今、俳優協会会長で、歌舞伎界最上位の役者、ということ。

また藤十郎はこの戸無瀬をなん度もしているよう。

国立劇場

↑国立劇場のページに写真があった。

まさに、これ、で、ある。

02年、戸無瀬は中村鴈治郎時代の藤十郎。
小浪は猿之助になった亀次郎。

今回の小浪は扇雀。藤十郎の次男。

この真っ赤な衣装は立女形の象徴のようなもの、と、
藤十郎がインタビューで語っている。

女形というのは、立役と比べて身分というのか上下関係は
歴史的には立役よりも下という位置付けであったという。

昔の歌舞伎では座頭(ざがしら)が頂点にいて、
これは立役(男役)のトップで、その芝居の肝の役を務める。

通し狂言の大詰などで、今でもたまにやることがあるが、
主人公役=座頭が舞台中央で見得を切って「本日はこれ切りぃ〜〜」という
いわゆる切口上をいって幕になる形がある。

これができるのは、立役の筆頭、座頭だけ。
女形は立女形でもこれはできない、という。

先の国立劇場の写真の場面は戸無瀬が娘小浪に刀を構えているが
お石に祝言を断られて、葛藤し、娘を殺し自分も自害をしようという場面。
これが見得にもなっている。(立ち身の型というよう。)
これで幕にはならないが、女形としてはやはり最上最大の
見せ場ということになるのであろう。

さらに、もう一度、国立劇場のページの舞台写真をご覧いただきたい。

(写真では見えないが)雪の降る白と黒(夜のような)の舞台である。

由良助宅の装飾のない座敷の襖は、黒に白抜きで漢詩が書かれている。
これを背景に、白無垢の小浪の花嫁衣裳。
そして戸無瀬の真っ赤な紋付。

色彩的にも見事な演出といってよかろう。
まさに歌舞伎美学の結晶である。

ちなみに、襖の漢詩はイヤホンガイドで、唐詩選だ、といっていたので、
文字を読んで調べてみると、韓愈の有名な「出門」という古詩であった。
高校の頃の漢文の教科書に載っていたのを思い出した。

韓愈が若い頃、科挙の試験に落っこちて、書いたもの。
自分の考えが世の中に受け入れられず、私は門を出ても行くところがない、
というようなことを嘆いている。
まさに、由良之助のこの時の心中を現わしているものであろう。
こんなところも、芸が細かい。

さて。

ここで、戸無瀬を中心にこの幕の浮世絵を年代順に出してみる。
戸無瀬の衣装にご注目いただきたい。

昨日も出したが、文化5年(1808年)。

左がとなせ。
一番外に着ているのは真っ赤ではなく桃色なのか、
薄い色のもの。

(江戸中村座 画豊国 本蔵女房となせ、三代目中村歌右衛門
由良之介女房おいし、四代目瀬川路考)












20年後、文政10年(1827年)。

立っている方が戸無瀬。
片袖を抜いているが、色は多少濃いが、真っ赤ではない。

(江戸市村座 画国貞 となせ、二代目岩井粂三郎 小なみ、初代
坂東玉三郎)














さらに、20数年後、ペリー来航の翌年、嘉永7年(1854年)

刀を持っているのが戸無瀬だが、
このあたりから、随分と濃くなっているように見える。

(江戸中村座 画豊国 おいし、三代目岩井粂三郎 となせ、二代目
尾上菊次郎 小なみ、尾上歌柳)














8年後、いよいよ幕末、風雲急を告げている、文久2年(1862年)

こんな時期でも普通に芝居は続けられていたのであろうか。

これは座敷ではなく傘を差して、大石宅へ着いたところか。
右側、戸無瀬は上着を着ているがその下の着物は、明らかに
真っ赤に見える。

(江戸中村座 画豊国 となせ、五代目坂東彦三郎
小なみ、二代目沢村訥升)











4年後。慶応2年(1866年)


これも退色しているようだが、赤、と、
いってよろしかろう。

(江戸市村座 画国周 小浪、初代河原崎国太郎
戸名瀬、五代目坂東彦三郎)

文化、文政期は、薄い赤。
嘉永から少し濃くなり、文久から真っ赤になってきているように
見えるではないか。

浮世絵なので、色が変化していることも否定はできなかろうが、、、。

つまり、現代の真っ赤な衣装の演出は、嘉永以後、文久までの間で
できている、ということが推測できるのではなかろうか。

またこの色の変化は、先に書いた戸無瀬という役が立女形の重い役に

なったのもこの頃なのではないか、ということも想像できる。

11月の「忠臣蔵」六段目で書いたが、ここの斧定九郎は、
初代中村仲蔵が工夫をしたといわれているが、この戸無瀬も
嘉永から文久の頃の誰かが、おそらく有力な女形が、工夫をし、
さらに女形そのものの地位の向上も図った、、、そこまで
考えるのは、推量がすぎるか。

また、先に書いた、襖の韓愈の「出門」。
これは慶応のものにもまだ出てきていない。
(慶応のものは、二ツ巴の大石家の紋。嘉永のものなど、
「忠臣蔵九段目 大当里(あたり)」 などど書かれているのがご愛嬌。)

と、いうことは、明治以降の工夫ということになるが、
史実や如何に?。

つづく。



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