断腸亭料理日記2015

五反田考 その4


引き続き、五反田考。

昨日挙げた、昭和初期の花柳界の貴重な一次資料
「全国花街めぐり」。

これにある、五反田の頁をみてみよう。

冒頭に、アクセスを書いている。
著者の松川二郎氏、もとは読売新聞の記者ということだが、
文章がちょっとおもしろい。


「省線電車の五反田驛附近、電車の窓からすぐに目の前に鑛泉旅館何々と
書いた屋根看板が、頗ぶる非美術的にゴタゴタと見えてゐる一廓で、
地域からいへば大崎町上大崎百十番地を中心として、上大崎、下大崎及び
谷山方面に伸びてゐる。市内電車の便は頗ぶる悪い。品川驛からは三哩一圓
タクシーが最も便利。」


旧字もそのまま写してみた。

省線電車というのはむろん山手線のことだが、
この頃はこういう言い方が普通であったのである。
後の国鉄、今のJRのことだが、鉄道省の電車というのでこういっていた。

電車の窓からゴタゴタした非美術的看板が見えるのは、
どのあたりのことであろうか。

今もホテル街が山手線のホームからも南側に見えるが
そのあたりのことであろうか。

それにしても、場末感たっぷり、で、ある。
郊外の安い盛り場、そんな感じであろうか。

地域指定をされているので、地図上にここからここまで
と線が引けるのだが、今のところ私はその地図を手に入れておらず
はっきりとしたところはわかっていない。

谷山というのは目黒川を渡った南であることはわかった。
ただこの当時、上大崎百十番地がどのあたりなのか。
なん回もこのあたりは町名変更がされており、
今これもよくわからない。

駅から、目黒川を渡った向こうまで、というので
広めに書くとこんな感じではなかったのか。
想像図ではある。

(あくまでも想像図。この範囲の件は正しい情報がわかったら更新をしたい。)

現代の痕跡は、その線路際に密集しているホテル街。

そして、桜田通りを目黒川を渡ったところに今もある
その鉱泉旅館の名残と思われる、ちょっと廃墟のような和風旅館、
[海喜館]というところ。
そんな感じであろうか。

もう一度「全国花街めぐり」の五反田の頁に戻ろう。

この松川氏は口がわるい。

「鑛泉と云っても無論たいしたものではない、幾分かの薬物を
含んだ水ぐらゐの何処にもあるものだが、兎に角田圃の中に
鑛泉の湧出を發見して鑛泉旅館が起り、その旅館を中心に一種の
女があらわれて遂に今日の花街をつくるに至った経路は、極有ふれた
行き方で」皆さんご存知のこと。

などと説明している。
やはりあっという間にできたのは間違いなさそうである。

指定地認可が大正十年で「市内で行き詰っていた藝妓(げいしゃ)屋が
續々と此の新開地を指して集まって來た。」
その後、大震災があってさらに市内からくる者があり
膨張した、と書いている。

また、品川と渋谷の中間地帯で地の利もよかったとも、
分析している。
(当時品川は江戸からの品川宿が残っており、渋谷(円山町)も明治期には
既に大きな花街になっている。)

芸者屋が57軒、芸者大小合わせて、220名。

大小というのは、若い水揚げ前が小で、一本立ちした芸者が
大ということか。

しかし、220名はそうとうな規模であろう。
料理店25軒、待合45軒。

昨日引いた、指定の翌年の数字からもだいぶ増えている。

(店の名前がいくつか紹介されているなかに谷山の「觀喜館」というのが
出てくる。先に挙げた廃墟のような「海喜館」に名前が似ている。
もしかするとなにか関係があるのかもしれぬ。)

料金が書いてあった。

芸妓の玉代、一時間一本50銭、小芸妓30銭。
一座敷を二時間として祝儀2円、小芸妓は1円半。
箱銭50銭。出直りは2時間目から。
遊興税は消費額の3%。特別祝儀は5円から10円という。

だ、そうである。

この当時の1円は今の2〜3000円と思われる。

一本というのは、時間の単位のこと。
落語などにも出てくるが、古くは芸者さんにしても
吉原などでも安いお女郎さんは、線香に火をつけて
それが一本燃えきるまでを一単位としていた。
それで一本という言葉が残っているのだと思われる。

しかし、料金の名前がよくわからない。
東京でも土地土地でシステムが違っていたり、言い方が
違っていたりもしているようである。

玉代(ぎょくだい)というのは、芸者さんの料金で
最も広く使われる言葉だと思うが、基本料金のようなもの
といってよいのか。

例えば、二時間の宴会で一人呼んで、玉代と祝儀で合計3円。
箱銭というのは、三味線を弾くお姐さんが別にきて、50銭か。
出直り、はわからない、、、外出のこと?。つまり2時間以上で
外出可ということか。
特別祝儀は、、特別サービス料というやつか。
(まあ、ご想像の通り、ただ歌を唄ってお酌をするだけではないのが
この頃の東京の多くの芸者さんである。断腸亭永井荷風先生などは
盛んにこのあたりのこと『つゆのあとさき』『ひかげの花』などの
小説にも書いている。)

その後、五反田花街はどうなっていったのか。

料亭・待合組合員数という数字があったので引用をしておく。
1943年71、1950年37、1955年52、1960年35、1972年11
(加藤政洋 2005年)。

芸者屋を抜いて、料理屋と待合の合計ということでよいのか。

1943年は第二次大戦中である。
これが、71軒で最盛期。

この界隈も空襲を受けて五反田駅も丸焼け。
ほぼこの周辺は焼け野原であったようである。

だが、戦後すぐ復興し、37軒。55年にさらに増えて52軒。
戦中の最盛期に比べればまだ少ないが、大いに盛り返している
といえるのだと思われる。

そこからは数を減らしているが、72年は昭和47年であるが、
まだ、11軒もあったのである。
私などが小学校へ行っている頃である。

 


まだ、つづく

 

 


参考「近代東京における花街の成立」西村 亮彦・内藤 廣・中井 祐 2008年





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