断腸亭料理日記2015

不忍池のミドリガメ

7月11日(土)夕

夕暮れまでにはまだ間がある、不忍池。

弁天堂。



開いてはいないが、大きな蓮の花と、遠くに上野の山の精養軒。

池の縁まで近寄って見て、なにか水面が動いているのに気が付いた。

亀、で、ある。


体長は20cm以上あろう。

おわかりになろうか、よくみると、緑色。

そう。

あの、夜店で売っていた、ミドリガメ。


模様も緑の網目。

いるは、いるは、気持ちわるいくらいウジャウジャ。

頻繁に息継ぎをするために時折鼻ずらを水面に出す。

聞いてはいたが、こんなことになっていたとは、
なん度も不忍池にはきているが、今まで気が付かなかった。

たまたまここに集まっていたということも
考えられなくはないが、かなりの数いるのであろう。

むろん誰かが放したものが、繁殖してしまったのであろう。

我々も子供の頃からなじみが深いが、ミドリガメ(アカミミガメ)は
アメリカなど北米原産で輸入されているもの。

ミドリガメは温暖化などもあってか、全国でも放されたものが
野生化し蓮根などの農作物にも被害を出している地域もあるようで、
駆除対象にもあがっているということである。

調べてみると不忍池では千葉の印旛沼あたりでも問題になっている
カミツキガメが見つかったこともあるようである。

不忍池で今さら我が国固有の生態系を守らねば、というのも
まあ、あまり的を得た議論ではないような気もするが、
皆様はいかが思われようか。

ミドリガメにとどまらずカミツキガメ、魚ではブラックバス
などなど外来生物が日本の自然に放され、生態系を壊すことは
全国的には数多くあって、駆除が進められている。
これまで、あまりにもこうしたことに無神経であったことに対し
反省をする必要があろう。

全国的にはそういうことになろうが、不忍池については
もう少し違う思いが私にはある。

少し不忍池の歴史をふり返ってみたい。

徳川家康が本拠と定め江戸の街が建設される以前のこのあたりのこと。
あまり皆さんはご存知はないかもしれない。

不忍池というのは、その頃から、いやそれ以前からここにあった、
自然の池である。

上野の山というが、この頃は、今も地名としては残っているが
当時は忍が丘と呼ばれていた。
忍が丘で、不忍池。

反対の西側は、東大などがある本郷の台地。

そして、忍ケ丘の台地の東部、今の御徒町、上野、東上野、
入谷、私の住んでいる元浅草、小島などなどのあたりは、
不忍池以外にもたくさんの池や沼のある、低湿地であった。
(もう少し東、観音様のある浅草に向かって多少の台地
になっている。)

最近、大江戸線の出入口には、海抜が書かれているが、
確かに私のいつも使う新御徒町駅入口の海抜は、1.2mであったと思う。
今も低いのである。

こういった湿地が江戸の街の建設の中で埋め立てられ
入谷、下谷などの街ができていったわけである。

そうしていくつかあった池や沼のうち
不忍池だけが池としてと残されたわけである。

不忍池は千駄木、根津の谷を流れてきた藍染川(今は暗渠)が
流れ込み、今のアブアブの交差点から再び川(堀)となって流れ、
中央通りをくぐる。この橋が、三橋(みはし)と呼ばれていた。
(甘味やの名前に残っている。)
(この川(堀)は江戸期、東、南に分かれて武家屋敷の間を進み、
佐竹屋敷の前の三味線掘に入り、最後は鳥越川となり
隅田川へ流れていた。)

江戸期。
不忍池と上野の山の歴史は江戸初期から大きな変化を遂げる。

幕府の最も重要な寺として京都の比叡山延暦寺に対して、山の上に
大伽藍の東叡山寛永寺が作られ、琵琶湖の竹生島の弁天様を
不忍池に小島を作り勧請した。これが今もある弁天堂。
また、京都の清水寺に倣(なら)って不忍池に向かって舞台のある
観音堂を山の上に作った。

幕府の意図は、京都、あるいは隣の琵琶湖を江戸にコピーして
権威付けに使ったということである。

だが、江戸期を通して、不忍池の水、夏には花の咲く蓮。
春の上野の山の桜、夏の緑、と、風雅かつ自然豊かで
江戸人にとっての憩い場であった。
また、この蓮は、食用にもされ神田の青物市場、やっちゃばでは、
蓮根(レンコン)の産地の一つに数えられていた。
今からは俄かに信じられないかもしれぬが。

ただ、この時点、江戸期で不忍池はほぼ人工のものになり、
我国古来からの生態系、というような文脈で語る存在では
なくなっているといえよう。

その後、明治。
戊辰戦争で焼かれた上野の山は新政府の文明開化、殖産興業の
一大見本市会場になり、また、池のまわりで競馬なども行われ、
不忍池は段々に埋め立てられていった。

第二次大戦が終わり、すべて埋め立てて野球場にしよう、
という計画まであったという。

さて。
もともとは自然の池であった不忍池がこんな歴史をたどり、
小さくなり、それでも今、大都会の中にあって、上野の山の桜や
緑と合わせて近隣や訪れる人々の心に多少の潤いを与えてくれている。

私がミドリガメを不忍池で見つけた時に真っ先に、浮かんだのは
可哀そうに、という思いであった。

ここに生活せざるをえないミドリガメも可哀そうだが、
ゴミなどもまわりに沈んでいるきれいでもない水に
アメリカから渡ってきた亀がうじゃうじゃと泳いでいる
不忍池そのものが可哀そうであると。
外来種とはいえ生き物が生きていられる環境である、というのはせめてもの
慰めのようではあるが、だからこそより“はきだめ”のような
感覚が強まってくる。

これが例えば皇居の内濠であればまた違うのであろう。
人々の興味の問題もあろうし、社会的な重要性もあろう。

ただそこにあるだけのどっちでもいい存在?!。
それはやはり、可哀そうである。
少しでもきれいな方がよいに決まっているし、
ミドリガメも本来ならばいない方がよいはずである。
誇れる、自慢にできる不忍池であってほしいと思うのである。

 


 


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