断腸亭料理日記2017

鳥越祭2017 その1

6月9日(金)夜〜

神田の[藪]そばから、秋葉原の携帯修理やへまわって、
iPhoneを引き揚げる。無事修理終了。

TXで一駅、新御徒町まで帰る。

上がってきて、町内の通りに入ると。
町会名入りの赤いコーン。

そう、祭。

鳥越祭、で、ある。

台東区、千代田区、中央区など東京の旧下町の
お祭の多くがゴールデンウイーク前後から、ここまで。
ほぼ毎週のようにどこかで行なわれている。

今年もそうだが、毎年梅雨に入ってすぐ、
このウイークエンドが、初夏の東京祭シーズンのフィナーレを
飾る、我らが鳥越祭、で、ある。

界隈をやっていたテレ東の「アド街」を
ご覧になった方もあるかもしれぬ。

神酒所(みきしょ)開き。
神輿への御霊(みたま)入れが行われていた。

金曜、19時半頃。

既に、終わったところのよう。

なに色というのであろうか、緑と灰色の間のような揃いの着物を着た方達。
町の睦(むつみ)という祭組織の役員の方々。

神酒所というのは町内の祭本部といってよいようなところ。
まあ、これはどこでも同じであろう。

鳥越祭は、私の住む元浅草から少し南の鳥越二丁目にある
鳥越神社の例大祭。

現在氏子町二十二か町が参加している。

ここでいっている町とは今の行政区画の町ではなく、
旧町である。

このあたり台東区のいわゆる町内会はほぼすべて、
旧町がそのまま残っている。

余談だが、この旧町の扱いというのは東京でも
区、地域によって随分と違っていておもしろい。
いきなり、祭とは離れるがお許しを。

例えば、私の元の仕事場であった新宿区の牛込地域などは、
ほぼ江戸のままの町名、町域が残されている。
神田あたりもこれに近い。
これらは、住んでいる人々の反対運動で残った
という。
どちらもアイデンティティーが強かったということ
なのであろう。

神田は江戸開闢(かいびゃく)からのいわゆる古町。
大工、左官、等々の職人の街であり、多町には青物市場、やっちゃば
もあり、江戸っ子の本場を自認していた。
誇り高い神田っ子。

これに対して牛込の方は江戸からの山手。
江戸期には町人の住むいわゆる“町”は限られており、
ほとんどが武家屋敷。
かの狂歌師にして名代の文化人太田蜀山人の本職は
幕府の御徒で牛込の御徒町(北町、中町、南町)に住んでいた。
明治以降はそのままお屋敷町として住人は代わったのであろうが
身分があったり、お金がある人々が住んでいた。
そんなことで、プライドもあったのであろう。
町名を残す運動が起きたのか。
今風にいえば、こちらの方は、アイデンティティーというよりは
近代的な権利意識の強い人々、といった方がよいかもしれぬ。

これに対して、おもしろいのは、日本橋、京橋などの中央区。
あるいは、我が下谷、浅草の台東区。
これらは、由緒ある江戸からの町名はほぼ消滅している
といってよいだろう。
考えてみるに、これらの地域が江戸からの町名にたいしての
アイデンティティーが少なかったとは一概はいえないとは
思う。今でもそうだが、住んでいる皆々は日本橋にしても、
浅草にしてもアイデンティティーはむしろ強烈にある。
ではなぜか。

日本橋と例えば、浅草でも違っていそうではある。

日本橋は逆に日本橋というブランドがお上に異を唱える
ということをさせなかったのではなかろうか。
かの三井のお膝元ではあるが、御用商人とはいわないが、
商人(あきんど)はお金にならぬことを争うことは
しなかろう。

浅草は?。
浅草は盛り場。
浅草に限らないと思うのだが、盛り場の場合、
ただでさえ、やましいものがあろう。
できるだけ、お上のいうことには逆らわぬように、
と考えたのではなかろうか。

が、やっぱりアイデンティティーは強烈にあった。
それで、このあたりの旧町は新町名になってすぐに、
旧町の町内会を団体組織として届け出ている。
(町内会を組織として届け出ているの例としては嚆矢であり
他にはその後もこの地域以外にはあまり例はないようである。)

長いものには巻かれろという気質は確かにあるように
思うのだが、それでも実質的には俺たちの町は
俺たちの町である、という誇りを形で示したかった
のだと思うのである。

鳥越祭の前に前置きが長くなってしまったが、
そんなこともあって、その旧町が今も連綿として、鳥越神社の
氏子組織の単位であり、自前の町神輿を持ち、揃いの半纏(はんてん)を着て
祭の構成員になっているのである。

七軒町の町神輿。

必ず各町、子供神輿と太鼓がある。
その昔、高度経済成長の頃であろう、子供が多かった。
その名残であろう。

私の住む元浅草一丁目は七軒町という旧町で、町会名。
都立白鴎高校があって、実質的な町の範囲としては決して
大きくはない。
ただ、歴史は古い。
江戸期には下谷に入っていたようであるが、御徒の組屋敷
数軒(七軒?)の町として下谷七軒町の名前が見えている。

江戸期のことか、蒲鉾や椎茸でおかめの顔を書いた、
おかめそばというのがあるが、あれを初めて出したのは、
七軒町にあった太田庵という蕎麦やだそうな。

たくさんの七軒町のコーン。

祭提灯。

梅雨に入ったが、天気はよさそう。

明日がたのしみ。

 

 

 

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