断腸亭料理日記2019

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その7

円朝師の個人史を続ける。

師匠の二代目三遊亭円生との確執を越えて
芝居噺でさらに売れた。

文久元年(1861年)円朝23歳。浅草の表店(おもてだな)に転居。
翌年、寝込んでいた師円生はついに他界。同年、慕っていた兄の玄正
(永泉)も亡くなる。

いよいよ、幕末も大詰めになってきた。

元治元年(1864年)、水戸浪士らによる天狗党の乱が起きている。
関東、筑波山での挙兵である。

円朝は、この天狗党の乱について明治になってからの作品、
『蝦夷錦古郷の家土産』の中で多くの分量を当てている。
「これは今更申さんでも。皆さんご案内で御坐いますから」
といっており、常陸の筑波山で距離はあり、直接の影響は
江戸市中ではないのだが、江戸の人々は心配をしていた。

これ以前の討幕にまつわる騒乱は京を始め、西国であり、
江戸の人間にとっては、無縁のことであったことが裏付けられる。

一方、前後するが政局の方は、井伊大老の暗殺の桜田門外の変、
和宮降嫁、老中安藤信正暗殺の坂下門の変。尊王攘夷の風が吹き荒れ、
幕府の押さえが効かなくなってきたことはもはや隠しようがない。

文久2年(1862年)の薩摩藩によるイギリス人の無礼打ち、
生麦事件の発生。これにより江戸湾にイギリス軍艦が入り威圧。
列強との戦争の危機が直近のものになってくる。
幕府は賠償金を払い、この危機はなんとか収める。

安政6年(1859年)の横浜開港から始まった物価高騰がさらに
加速。「江戸市中では、不穏な空気が醸成され、多くの人びとが
困窮しているときに、異国人と交易して利を得ている商人には
『天誅』を加える、という貼紙が日本橋をはじめ各地に貼りだされた。」
そして文久3年(1863年)10人もの商人が殺されたという。
江戸も騒然としてきた。

さて、円朝師。
元治元年は26歳。念願であった両国の一流の寄席「垢離場(こりば)」で
真打となる。「垢離場」は500人も入ったという。以後慶応3年(1867年)
まで3年間、昼席に出演し続け、文字通り大看板となっている。弱冠26歳で
大スターである。弟子も増える。
17歳の頃、初代円生の墓前に誓ってから、9年。
念願であった三遊派の復興が叶ったといえよう。
早い。
騒然とした江戸であるが、無関係のように円朝は順調な出世を
している。お客もちゃんときていたということであろう。

ちなみに先日の黙阿弥作「青砥稿花紅彩画(白波五人男/弁天小僧)」は
文久2年(1862年)江戸市村座の初演である。騒然とした江戸でも
やはりちゃんとお客はきていた。まだまだ、余裕があったといって
よいのかもしれぬ。

元治元年、京で長州藩により禁門の変が起き、第一次長州征討。
江戸では幕府は「江戸中の火消し7000人を集めて」長州藩の
上屋敷、中屋敷を破却している」という。これ、知らなかった。
やはり、この頃は上方ばかりに目がいって、江戸のことは
歴史の表には出てこない。長州征討は「物価高騰に拍車をかけ、
庶民の困窮は深ま」った。
ただ、こんなことも明治になった円朝師の記憶には強烈には
残っていないようである。

慶応2年(1866年)、あの坂本龍馬の周旋で薩長同盟が締結される。
ここから第二次長州征討。だが、ご存知のように幕軍は惨敗。
「この戦争によって江戸では再び米価高騰」。第一次もそうだが、
戦争により米が必要とされ、買い占めなどもあってのことであろう。
5月には品川から芝で、質屋、米屋、酒屋などが打ち壊しにあい、
また、9月には日本橋の豪商も打ち壊されている。
ただこれも円朝の噺には登場しないという。

慶応3年(1867年)。いよいよ討幕活動に火がついてくる。
薩摩藩による、京とは別に、関東での後方攪乱作戦である。
これもあまり知られていないか。

「薩摩藩は浪士・豪農・任侠などの多様な人々を集め、関東各地に
おいて幕府を挑発した。」浪士隊は下野、出流山(栃木市)に挙兵。
ただこれは「座頭市」などにも登場する、あの八州廻り、こと、
「関東取締出役」を総大将とする幕軍に敗れて「40名余りが佐野川原で
処刑された。」
また、これと並行して薩摩藩は浪士を指揮し江戸市中での
テロ活動を開始。幕府は庄内藩などに三田の薩摩藩邸焼き討ち命じ
浪士を殺害、捕縛。
薩摩のテロ行為によって「強盗と殺人の渦中となった江戸は大混乱
に陥った。」
このあたりのことは円朝周辺の記録にも直接名指しでは出てこないが
『人心おのずから穏やかならず』という記述はあるよう。

慶応4年正月、いよいよ鳥羽伏見の戦い開始。

幕軍は敗れ慶喜は逃げ出し官軍の東征が始まる。ほどなく官軍は江戸に
到達し江戸無血開城が4月21日。「5月14日、円朝が日本橋瀬戸物町の寄席
伊勢本へと向かう途中、柳橋界隈にさしかかると、『官軍』によって道は
封鎖されていた。」

いよいよ上野戦争である。
直接、円朝や弟子たち、江戸庶民に切りかかる、鉄砲を発砲すること
はなく、浅草見附(浅草橋)が封鎖されて通れないという程度であった。
実際に戦闘が始まると「浅草見附の橋詰に至ると、青竹で囲いをした中に、
幕臣の『血汐に染まりたる生首』が晒してあるのを目撃する。」
ただ、まだ多少他人事。

しかし、明治になってからの「八景隅田川」という円朝作品には
上野戦争を回想した、こんなセリフがあるよう。

「やっぱり上野の火で御徒士町辺はみんな焼けたとねえ、なるほど
 代物は皆な分捕になった、そうだろうね、あの辺は酷かったそうだね」

上野の山。寛永寺は別名瑠璃殿といって、瑠璃色でそれは見事なもの
であったという本堂である根本中堂はじめ大伽藍は皆、まる焼け。
官軍は、今の中央通りの角、京成上野駅前のヨドバシカメラあたりに
あった木造三階建ての料亭から西郷さんの銅像あたり、さらに奥の
瑠璃殿など寛永寺伽藍にアームストロング砲をガンガン打ち込んだ
なんというのを、司馬遼太郎先生の「花神」であったか、出典は忘れたが、
読んだ記憶がある。

御徒町あたりは、名前の通り“御徒士”など幕府下級役人の組屋敷が
主でこれに寺社と町家。大きな武家屋敷はそう多くはなく、どちらかと
いえば、小さな家屋が密集していたところといってよいだろう。
これら御徒町あたりもみんな焼けて、略奪も起きていたということである。

上野戦争で彰義隊はあっけなく1日で敗れている。
むしろ、戦後の方が円朝ら江戸庶民にとっては、有形無形の記憶には
残っているようである。「生き残った彰義隊士(旧幕臣)は、ちりぢりに
なって江戸市中に逃走、これを『官軍』が討伐していった。」

「もしこの戦争が長引いたならば『江戸市中も修羅の街と成り、夫(それ)
こそ市民塗炭に苦しまんに』(「手前味噌」これは円朝師の関係のもの
ではなく、やはり幕末から明治に生きた歌舞伎役者三代目中村仲蔵の
自叙伝。)とある。」

ちょっとわかりずらいのだが「修羅の街」というのは官軍の兵士や士官が
江戸の町々で探索活動というのか、家々を改めるような落武者狩りをし、
実際に切り合いが起きたり、していたのであろう。これで市民はそうとうに
怖い思いをしていたと考えてよいだろう。

また、一方で、天狗党の乱後、江戸の治安悪化が表面化した頃から富裕な
商家などは「別荘を(向島など郊外に)建て私財を持ち出し疎開し始める
様子」も先の「八景隅田川」には描かれている。
疎開などの余裕のない円朝などの「江戸の庶民は内戦の渦中に」残らざるを
得ず「安全地帯にいることができた裕福な人々(非当事者)の安易な同情を
処断している」という。

 

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 


つづく

 

 

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