断腸亭料理日記2019

上野・蕎麦・翁庵

1月17日(木)夕

夕方、上野の蕎麦や[翁庵]。

ちょっと久しぶりであろうか。

もうなん年も通っているが、いつきても変わらない。
これがいい。

ほぼ上野駅前。
浅草通りに面し、上野警察前。

毎度出している江戸の地図も出してみよう。

現代の地図も。

だいたいおわかりになろうか。

下谷広徳寺門前という。

今、浅草通りといっているこの通りは、新寺町通りと
呼ばれていた。

広徳寺というのは大きな寺だが、今の上野警察と台東区役所などに
なっている。

関東大震災後に練馬へ移転しているがそれ以前は、
このあたりのランドマークといってよろしい。
戦国期から起源がある臨済宗の禅寺。家康が江戸入府後神田に再興。
大名家なども檀家に持っていたよう。

「おそれいりや(入谷)の鬼子母神」という江戸の地口(洒落)は有名だが
その後に「びっくりしたや(下谷)の広徳寺」あるいは「どうかしたやの
広徳寺」と続いた。

さらに「なさけありま(有馬)の水天宮」「うそをつきじ(築地)の御門跡
(ごもんぜき=築地本願寺のこと)」なんというのも続きにあった。
(蜀山人作などともいうがこれは誤りと考える。※)

ともあれ。

戦後の建築であると思われるが、よい感じの二階建ての
日本建築の町のそばや。

入ったのは、夕方4時頃。

入った右側に食券売り場があって、昼時など混んでいる時には
ここで食券を買うのだが、この時刻であれば人もおらず、
席に座ってから頼んでよい。

お姐さんに一人といって、TVの視えるところに座る。
お客は奥でお姐さんを相手に呑んでいるオジサン一人。

お酒をもらおう。

お姐さんに、

お酒お燗と、ねぎせいろ。

よかった。

なにがといって、熱燗ですか、とは聞き返されなかった。
通じたのか。

トイレに立って、戻ってくると、きていた。

お通しは、夏でも冬でも、枝豆。

猪口に注ぎ、呑む。

よし、正解。
熱くもぬるくもない、温度。

そうなのである。
これが正しい。

熱燗とは燗酒の温度のことで、燗酒の代名詞ではない。
くどいようだが、声を大にして言いたい。
「お酒お燗」と頼み、店は上燗、適温を出す。
どっちにしても「熱燗」はやめてくれ。

さて。

呑み終わりが近くなってきた頃、お姐さんの、ねぎせいろ、と
注文を通す声が聞こえて、出てきた。

お酒と同時に頼んでいるが、特にいわれなくとも、
ちゃんとこちらの呑むペースを見ていてくれて、
時間差で出してくれる。

これも、少し前まで東京の蕎麦やではお客への
配慮として、するものであったこと。
まあ、この時はお客も少なく余裕もあったのではあろうが。
ただ、あるべき姿がこうである、というのは
ちゃんとこの店に残っていることは間違いない。

ともあれ、ねぎせいろ。

もりのそばのそばつゆに、小さなかき揚げが入っている。
これがここの看板、ねぎせいろ。
かき揚げの種は、ねぎと、いか。

そばつゆに、小さなかき揚げを入れるのは、ここだけ
ではなく、室町[砂場]

にも今もある。

[砂場]ではこれを天もり、天ざるといっている。
どちらが先か。おそらく店の歴史からすれば[砂場]の方が
古いのではなかろうか。
まあ、どちらにしても、他ではそばつゆに小さなかき揚げを
入れるというのはみない。もっとあってもよさそうではあるが。

室町[砂場]の創業は明治2年。
この上野[翁庵]の創業は明治30年頃といい、
そばつゆに小さなかき揚げを入れるのは明治の初期に
室町[砂場]で生まれ、その後ある程度東京の蕎麦やに
広まったのではなかろうか。
だが、なぜか他では残らなかった。

もう一つ、おもしろいのがここ[翁庵]の蕎麦の色。

先日の、神田の[藪]を思い出す。
そう、薄緑、なのである。

ここも新そばの時期だけではなく、
年がら年中この色であったと思う。

うまかった。

ご馳走様でした。

勘定をして、出る。

やはり、ここも上野警察前でこのまま、続けてほしい。
そんな蕎麦やである。


台東区東上野3-39-8
03-3831-2660

※「おそれいりやの鬼子母神〜」の地口は蜀山人の作などともいうが、
おそらく後の講談師、落語家、あるいは戯作者などの創作でまさか
蜀山人大田南畝先生がこんなものを作ってはいないと考えている。

落語でも蜀山人作として語られているものはたくさんある。

花というはこれよりほかに仲之町 吉野は裸足 花魁は下駄(松葉屋瀬川他)

まだ青い素人浄瑠璃黒がって 赤い顔して 黄な声を出す(寝床)

そもそも「蜀山人」は実在の文人、狂歌師であり幕府御家人であった
大田南畝とは離れ、談志家元などもたまに演っていたが講談、落語では
水戸黄門の「黄門漫遊記」のような構成で蜀山人が狂歌、頓智で
出会ういろいろな問題を解決するといった内容の一連の作として
長く語られていたのである。

太田南畝先生について書いている。

まあ、別の人として考えた方がよろしかろう。

 

 

 

 

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