断腸亭料理日記2019

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その4

さて。
中断していた
須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」に

戻らなければいけない。

ここまでは、このテーマを考えている私自身のことと、
幕末から、明治初め、すなわち天保期から明治0年代の
一般庶民の社会背景をみたきた。(同じく須田先生の研究
「悪党の一九世紀」から)

幕末近い天保の大飢饉から一揆、打ち壊しの頻発、
そうとうに治安がわるく、ひどいときには“万人の戦争状態”と
いわれるほどになっていた。
そして、これは武士達の討幕運動から戊辰戦争になる前から
この状態が始まっていたということ。

研究は記録に残っている大規模な一揆、打ち壊しが対象であるので、
それ以外、個別に町や村で起きていた無宿や博徒ら悪党による
博打、詐欺、窃盗、恐喝、押し借り、強盗、強盗殺人、等々は
もはや数限りなかったといってよいのであろうと想像する。

大規模な一揆は、ある程度首謀者である、博徒、無宿のリーダー
(親分)などの捕縛は行われていたようである。しかし、
散発的な彼らの一つひとつの犯罪はもはや取り締るような余力、
余裕も幕藩領主側にはなくなっていたと考えられよう。
彼らは大刀、長脇差、脇差、匕首(あいくち)、鑓(やり)、弓など
従来の武器に加え、既に鉄砲(ライフル)、拳銃なども
持つようになっていた。これに対し、領主は名主らを組織し、
農民に自己防衛を推奨し新式の鉄砲を与え、訓練をさせるように
なっていたのである。安土桃山から江戸初期の兵農分離政策とは
反対のことをせざるを得なかったわけである。これが“万人の
戦争状態”といわれる所以である。

これが幕末から明治初年の30〜40年間エスカレートしながら、続いた。
それは武士達の討幕運動とは別の、庶民の社会情勢であったと
いうこと。殺伐とし、男でもうっかり夜も歩けない。自分の身は
自分で守る。女子供は身を潜めているしかなかろう。
武士たちの幕末に耳目が集まり、研究もあまりされてこず、
やはり、あまり知られていないことであろう。
この社会状況はとても重要なことであろうと私は考える。
なぜなら、庶民の娯楽である、黙阿弥の歌舞伎、そして文化文政期に生まれ、
当時発展、流行を始めた江戸落語のバックグラウンドになっているからである。
そして、これはこと歌舞伎、落語にとどまらない。明治初年がスタートになっている
明治という時代を考える上で重要になってくると思うのである。さらに明治をどう
評価するのか、という歴史的視点は、むろん現代の我が国、私たちにも
つながっている。

ともあれ。江戸時代を舞台にしたいわゆる“渡世人”の時代劇、ご存知
カツシンの「座頭市」や中村敦夫の「あっしには関わりのねえこって
ござんす」の「木枯し紋次郎」といったものがある。
あれらは北関東が主要な舞台だが、あんな感じは、幕末どこといわず、
実際の光景であったということなのである。
(ただ、鉄砲、拳銃のようなものはこれらの時代劇には
登場しないのが普通だが、既に持っていたのは憶えておきたい。)

実際の無宿、博打打ち、実在した江戸期の博徒、国定忠治などの研究もあり
別途書くとするがこんな背景を踏まえて、肝心の三遊亭円朝師、須田先生の
「三遊亭円朝と民衆世界」を読んでいこう。

円朝師の前に、江戸落語そのものの始まりについても
ふれておく必要があろう。

江戸落語の始まりは以前にも書ている。

これは延広真治先生の論である。
(この先生は歴史ではなく、文学の人。)

落語の始まりを天明6年(1786年)烏亭焉馬(うていえんば)の、第一回の
『噺の会』としている。参加者が持ち寄った噺を披露する。
まあこれは狂歌師蜀山人太田南畝先生なども関わっている文化人サロン的な
ものでのこと。職業落語家ではなく、俳句の会のような趣味のもの。

本当の始まりはこの会にも出入りをしていた、初代三笑亭可楽が
下谷稲荷で初めて寄席を開いたのが、幕末にはまだ70年ほど間がある
1798年(寛政10年)。(今、この最初の寄席が下谷稲荷で開かれた
というのが通説だと思うが「落語の鑑賞201」(延広真治編 二村
文人 中込重明著 2002)によれば下谷稲荷は疑問で、近所だが
元浅草3丁目に今もある正福院であるとの説を紹介している。)

その後同じく初代三遊亭円生、同林屋(家)正蔵を入れた三人が
中心となりお客から題をもらって即席に作る、三題噺やらから
始まり、今の江戸落語に通じるたくさんの噺の原形ができていったと
考えられている。ただ、これはあくまで原形である。
大まかな筋が共通している原形というだけで、実際にはその後、
明治、大正と歴代の噺家達によって、改編が繰り返され現代に
伝わっている噺になっている。
ただ、これも本当のところは、明確にはわからない。
江戸期に喋られていた噺、一言一句の言葉そのものは、文字にはほぼ
残っていないのである。文字に残るようになったのは明治になってから。
これは江戸落語の歴史研究にとって重要なポイントである。
歌舞伎については文字にした台本が残っているが、落語にはそんなものは
なかったのである。

落語の研究では、噺の概略ができたのをその噺の誕生と
考えられることが多いのだが、これには私には異論がある。

ひとつの噺を“作品”と考えるが、この作品で、なにを
いいたいのか、まあその噺のテーマといってよいもの。
これは談志家元の持論でもあったが、同じストーリーでも
演出、下げその他でテーマ、作品性は変わってくる。
そもそも一般には落語のテーマ、作品性など、談志家元が言い始めた
ことだと思うが、今でもあまり意識されていないことでもある。

例えば「芝浜」という有名な人情噺がある。
(円朝作ともいわれてきたが、確証がなく、違うというのが
今は通説のよう。)

ちょいと長くなるがご存知のない方のために、筋も書く。

芝の担い売りの魚やの男、呑んだくれで働かない。長屋住まいの
米びつも空っぽ。
朝、内儀(かみ)さんにせっつかれて、いやいや仕事に出る。
むろん魚やなので朝が早い。
が、内儀さんはさらに一刻(二時間)時刻を間違えて
早く起こしてしまった。時の鐘が鳴るのを聞いて気が付く。
芝の浜に着いたが人はいない。帰るのも馬鹿馬鹿しいので
浜でタバコを吸う。と、波打ち際に皮の財布を見つける。
そこにはなん年も遊んで暮らせるほどの大金が入っていた。
拾って、慌てて家に帰る。
ヤッタゼ!。さあ、呑むぞ〜。
色々なものを取る、友達を呼んでくる、大盤振る舞い。
ひっくり返って、寝てしまう。

翌朝、内儀さんに起こされ、仕事に行くようにいわれる。
そんなもの、昨日拾ってきた財布の金で払っとけ。
内儀さんは、財布などない。なに夢のようなことを
いっているのだ、と。
財布を拾ってきたのは夢で呑み喰いをしたのは現実。
この金をどうするのだ。さあ大変だ、働こう。
改心をして、働く。
三年がんばって、借金も返し、裏長屋から表通りに
一軒の魚やを開けるようになる。
その大晦日。

この噺の最後の部分。
私が夢にした、と、内儀さんの告白。
あの時、お前さんは確かに、財布を拾ってきた。
だが、これを使ってよいのか、大家さんに相談にいった。
大家は、そんなことをしたら、後ろに手が回る、届けなければ
だめだ。夢にしてしまえ、ということになり、起きたお前さんに
夢だったといって人のいいお前さんは信じて、今日まで三年一
所懸命に働いてくれた。実はそのお金ももう随分前にお下げ渡しに
なって返ってきている。これ。

この内儀さんの描き方が問題なのである。
それ次第でこの噺そのものの印象、お客への伝わり方、
つまり作品性が大きく変わってくる。

馬鹿な亭主。しっかりした賢い内儀さんとして
描くのが以前からの演出であったのである。

 

 


つづく

 

 

 

 

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