断腸亭料理日記2019

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その5

引き続き、須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

テキストからは少し離れているが、
一つの噺の完成は、いつなのかという話。

その例として「芝浜」のお仕舞の部分のこと。

以前までは小利口なしっかり者の内儀(かみ)さんとして
描くのが一般的であった。(よく言えば内助の功か。)

これは後味がわるいと、談志家元は演出を変えた。

長年連れ添った内儀さんに嘘をつかれていて悔しいでしょ。
腹が立つでしょ。殴ってもいい。でも私、お前さんのことが
好きなの。捨てないで、と、かわいい内儀さんに描く。

噺の大筋、構成は変わらないのだが、作品性は、ずっと高い。
より感動を与えるのは談志家元の演出であると考える。

落語というのは、エンターテイメント性も含めて
表現芸術であると考えるが、概略ができた段階では
作品としては出来上がっていない。つまらない噺は
消えてなくなり、おもしろい噺は、多くの噺家に伝えられ
弟子、またその弟子、に伝えられ、時々の名人によって
磨かれる。これが演出を変えていくという作業である。
これによって、作品性が高まっていくのである。
同じ噺でも時代によってあるいは人によって演じられ方、
演出は異なっているのである。

現代に残っている噺の概略ができた時期は、極論をすれば、
たいした問題ではない。今の形になったのがいつ(誰によって)
なぜ、なのか、ということがとても重要なことだと私は
考えているのである。

現代に残っている江戸落語の多くは、幕末までにその概略は
できている、ということは多く研究されている。
笑い話集のような出版されたものがあり、そこに原話がある
ことで考証している。
だが、実際には作品は完成されていない。現代に伝わっていく
どこかの段階で無駄な部分がそぎ落とされ、あるいは加えられ、
演出が変えられている。
これが本当のその噺の完成であり、私はここに焦点を当てるべきである
と考える。なぜならば、落語の噺は、それぞれの原構成ではなく、
エンターテインメント性(おもしろおかしさも含めた)、感動を生む
芸術性、作品性こそがその噺が現代に伝わっている本質に他ならないと
思うからである。(その落語の本質を談志家元は「人間の業の肯定」と
いう言葉で表現したのであるが。)

と、こんなことを踏まえたい。

さて。ここまでが円朝師が生まれるまでの落語というものの背景。
それから私が考える、落語の成立、完成についてである。
円朝師に戻ろう。

円朝師は天保10年(1839年)湯島切通町に生まれ、父も噺家で
初代橘屋円太郎。父の師匠は二代目三遊亭円生。

思い出していただきたい。天保10年というのは大飢饉が起きて
一揆が全国で頻発し騒乱状態が始まった天保8年の2年後である。
そしてこれが幕末に向かってエスカレートしていくことを念頭に
置いておきたい。

弘化2年(1845年)父円太郎は7歳の息子を噺家にすべく日本橋本銀町
の寄席「土手倉」に小円太という名前で初高座にあげる。

その後、父の円太郎は長期の地方巡業に出て、円朝を師匠の
二代目円生に入門させる。円朝は住み込みの内弟子となる。

そして嘉永6年(1853年)ペリー来航。円朝15歳。

須田先生はここでおもしろいことを書かれている。

ペリー来航時、江戸の人々は大騒ぎになっている。
これは日本史の教科書にも書かれていることである。

しかし、その後、明治になってこのペリー来航は
東京の人々の記憶からは、既に薄れていた、という。

江戸末には安政大地震という江戸未曾有の地震が起きているが
これと、上野戦争は明治になってからの円朝師の作品の中にも
多く登場するのだがペリー来航の記憶は一切登場しないという。

「ペリー来航は政治史上の重大事件であるが、文明開化期の
東京の人々の記憶からは薄れていったのである。」

これは重要なことである。
庶民にとっては自分たちの生活に直接関係のないことは
すぐに忘れてしまうのである。

余談だが、安政江戸地震は安政2年(1855年)に起きた。
震源は江戸湾北部荒川河口付近。いわゆる江戸直下地震。
マグニチュード7、江戸中心部での震度は6弱以上と考えられて
いるようである。今、いわれている首都直下地震というのは、
このこと。江戸・東京には繰り返し起きている直下地震が
あって、既に100年以上起きていないということなのである。

安政江戸地震の被害は倒壊家屋14346戸、犠牲者は1万人程度には
のぼっていたという。また、その後の火災で、江戸の武家屋敷の
80%は焼失。(wiki)

広重の「江戸名所百景」という浮世絵のシリーズは有名であるが
この出版は翌年の安政3年。

「浅草金龍山」(wikiより)

これは「江戸百景」の内の雪の浅草寺を描いている。
右奥に五重塔が見える。

安政江戸地震で実は、浅草寺の五重塔は倒壊、火災被害などは
まぬがれたが、頂上の九輪と呼ばれる、輪っかが重なったような部分が、
曲がってしまっていたことがわかっている。
だが、この絵では元のまま。

むろん浮世絵は写実ではないのだが、この大地震の翌年すぐに
出版されたこの浮世絵のシリーズにはこのように、地震で被害を受けた
場所、建物の多くが、それ以前の無傷の姿で描かれているという。
むしろ被害を受けたところを選んで描かれたともみえるという。
「謎解き 広重『江戸百』」(原信田 実)では、広重による
江戸復興へのエールではないか、という指摘もされている。

余談ではあるが、安政江戸地震は、むろんのこと当時の庶民には
人命もあろうし、住むところ、食べ物その他、大事件であり、
江戸にとっては大きな傷として記憶されるべきもので
あったわけである。

上野戦争はむろんのこと、江戸そのもので銃弾や大砲が飛び交う戦争が
起きているので大きな記憶ではある。
だが、生活が特に変わらなかったペリー来航はすぐに忘れて
しまっているのである。

さて。
円朝は二代目円生の内弟子となり、二つ目昇進。だが、二つ目の給金は
ほんのわずか。父円太郎はドサまわり中で不在。一家は三度の食事にも
困る有様。
円朝には兄がおり、玄正という僧侶であった。玄正は京都の
東福寺へ修行に出て、この頃、今もあるようだが西日暮里
(当時谷中)の南泉寺という寺に戻り役僧になっていた。

厳格な玄正は円朝を噺家にするのは否定的で、噺家修行はやめさせて
池之端仲町の紙屋に奉公に出してしまう。が、病になり実家に戻る。
その後、噺家に戻ったり、あるいは名代の浮世絵師歌川国芳に入門したり、
と転々とする。国芳のもとでの絵師修行も病のためすぐにとん挫。
玄正は順調に出世し、谷中長安寺(これも現存)の住職になっており
円朝は、母とともに引き取られる。父も江戸に戻ったようだが
妾を持って別居。「芸人の放蕩を絵に描いたよう」な父。
だが、円朝は噺家修行に戻り長安寺から寄席に出勤している。

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 


つづく

 

 

 

 

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