断腸亭料理日記2022

浅草千束通り・ふぐすっぽん・つち田 その1
「なぜ浅草にはふぐやが多いのか。」
吉原とふぐやの関係について考える。

4193号

10月16日(日)夜

さて、ふぐ、で、ある。

そろそろ季節。
だが、鍋ではなく、焼き。焼きふぐ。
直近、なにかのTVで視たのがきっかけではあるが、
過去、焼きふぐはなん度か食べている。鍋よりも焼き、
の方がうまいのではなかろうか。

浅草というところ、なぜかふぐやが多い。

今までふぐや、というとご近所、拙亭のある元浅草から
左衛門橋通りを北上した合羽橋本通りの [牧野
であった。が、コロナもありまた、人気で予約が取りずらく
なってしまった。

それで、今回は、千束通りの[つち田]。
ここも老舗で有名店であるのは知っていた。

当日、昼すぎにTELをして予約ができた。
17:30。

さて。浅草には、ふぐやが多いと書いたが、
なぜであろうか。
今でもそうだと思うが、東京、関東、広く東日本では
ふぐを食べる習慣は西日本ほどではないと
いってよいだろう。

ではなぜ、浅草に集中してあるのか。
浅草、あるいは浅草周辺も含めて、多いのだが、
特に、言問通りあたりから千束通りになん軒か
老舗が集中している。
[つち田]の焼きふぐの前に、今日はこのことを
ちょっと考えてみようかと思う。

TV東京「アド街」 によれば、浅草ふぐや最古参の千束通りそば[魚昇]の
コメントとして「明治30年代以降、吉原帰りに食事をする文化が
根付き、その中にふぐ料理も含まれていた為、ふぐ料理屋さんが
多い。」とある。

私なりの解釈、考察を少ししてみよう。
まず明治30年代以降、という年代。[魚昇]の創業が明治37年
(1904年)なのでこういうコメントになるのであろう。
この頃というのは日清戦争後と位置付けられる。
明治も30年代になるといわゆる文明開化も進み、
一般民衆の生活とマインドも変わり始めた頃といって
よろしかろう。玉子を高級だが庶民も食べられるように
なったり東京の盛り場に洋食やができ始めたり。

そして東京の外食文化として、この頃から徐々に
関西から料理人と料理が入り始めたのではなかろうか。

東京の高級料理には江戸からの江戸割烹料理というものが
元来存在した。[八百善]という名前が真っ先に思い浮かぶだろう。

最終的には、関東大震災後に東京の高級料理やは、江戸割烹
料理から、京料理に代表される、関西の割烹料理にほぼ
塗り替えられ、江戸割烹料理は事実上滅んでしまった。
詳細には今日は書かぬが[八百善]の歴史を調べると
見えてくる。江戸の伝統味噌、例の江戸甘が生産量を一気に
減らしたのも震災後。

ちょいとそれるが、なぜ、江戸割烹料理が関西割烹料理に
駆逐されたのか。これは簡単。関西の方がうまかったから。
江戸をはじめ、関東は土が赤土、関東ローム層でやせており、
京大坂周辺にくらべてうまい野菜ができなかった。
これが一つ。もう一つはこの野菜の旨味を補うことに
なった、濃口しょうゆが野田・流山、銚子で誕生したこと。
江戸・東京の在来料理は皆、真っ黒だが、これは旨味の多い
濃口しょうゆの味。やはり、これでは京大坂ほど料理技術が
進歩しなかったというのも無理からぬ話であろう。

ともあれ、明治30年代頃から関西の料理人、料理が東京へ
流入し始め、それとともにふぐ、特に関西風のとらふぐの
ふぐ刺し、ふぐ鍋を高級なものとして食べさせる店が
できていったのではないだろうか。ちなみに東京府では
ふぐ食は禁止されていたが明治25年(1892年)に内臓を
取り除くことを条件に解禁されているよう。(wiki)

ではなぜ、浅草、千束通り周辺なのか。

先の[魚昇]のコメントにもある通り、当時も官許の
遊郭として存在した吉原直近の街であったこと。

おそらく、ここ以外にも、当時であれば、新橋(銀座)、
葭町(人形町)、柳橋といった東京一流の三業地(芸者町)
でもふぐやはできていったのかと思う。ちょいと調べると、
人形町にも今もふぐやは、数軒あるよう。

では当時のこの千束通りあたりを見てみよう。

明治40年である。

現代も。

吉原と、千束通りの位置関係がおわかりになろうか。
[つち田]の場所も入れた。ちなみに[魚昇]もこの近く。

落語好きの方であればご存知であろう。
吉原というのは、多くの落語に登場する。

吉原へはどう行って、どう帰るか。この問題、で、ある。
さらに[つち田]から、横道にそれるのだが、
おもしろいので、これも考えてみたい。

先の[魚昇]のコメントにある「吉原帰りに食事を
する文化が根付き」の部分である。
これ、ちょっと誤解がありそうなのである。
(聞いて書いた「アド街」の誤解かもしれぬ。)

落語で語られる場合、吉原は夜行って、翌朝帰る、
というのが一般的であった、と。つまり、泊り。
(時間単位で遊ぶ格安の小店と呼ばれるところは
例外であったろう。)

昼遊び、というのも語られるが、基本、仕事を
持っている者は、夜が、普通であろう。

吉原は浅草からも少し離れており、交通手段は歩きか
江戸時代であれば、駕籠。夜早い時刻にきて、夜のうちに
帰るというのは難しい。

明治になって、人力車、あるいはさらに時代が下れば、
市電、タクシーいうのも出てくるが、現代に比べれば、
便はよいとは思えず、タクシーは高価。その夜のうちに
帰るということは少なく、大正、昭和初期まで泊りの
習慣は継続していたのではなかろうか。
むろん泊った方が楽であることはいうまでもない。

ふぐやに寄るのは「帰り」ではなく「行き」であった
のが正しかろう、と。「帰り」だと朝飯になってしまう。

吉原の廓内、妓楼内でもむろん飲食、さらには芸者を
呼んで騒ぐことはできるし、そういう遊び方は
江戸期から一般的であったことは落語、芝居の中でも
描写される。が、これは実のところ高額の出費を
強いられる。それで、先に外で食べてから、吉原へ向かう。

 

つづく

 

 

※お願い
メッセージ、コメントはFacebook へ節度を持ってお願いいたします。
匿名でのメールはお断りいたします。
また、プロフィール非公開の場合、バックグラウンドなど簡単な自己紹介を
お願いいたしております。なき場合のコメントはできません。

 

 

 

断腸亭料理日記トップ | 2004リスト1 | 2004リスト2 | 2004リスト3 | 2004リスト4 |2004 リスト5|

2004 リスト6 |2004 リスト7 | 2004 リスト8 | 2004 リスト9 |2004 リスト10 |

2004 リスト11 | 2004 リスト12 |2005 リスト13 |2005 リスト14 | 2005 リスト15

2005 リスト16 | 2005 リスト17 |2005 リスト18 | 2005 リスト19 | 2005 リスト20 |

2005 リスト21 | 2006 1月 | 2006 2月| 2006 3月 | 2006 4月| 2006 5月| 2006 6月

2006 7月 | 2006 8月 | 2006 9月 | 2006 10月 | 2006 11月 | 2006 12月

2007 1月 | 2007 2月 | 2007 3月 | 2007 4月 | 2007 5月 | 2007 6月 | 2007 7月 |

2007 8月 | 2007 9月 | 2007 10月 | 2007 11月 | 2007 12月 | 2008 1月 | 2008 2月

2008 3月 | 2008 4月 | 2008 5月 | 2008 6月 | 2008 7月 | 2008 8月 | 2008 9月

2008 10月 | 2008 11月 | 2008 12月 | 2009 1月 | 2009 2月 | 2009 3月 | 2009 4月 |

2009 5月 | 2009 6月 | 2009 7月 | 2009 8月 | 2009 9月 | 2009 10月 | 2009 11月 | 2009 12月 |

2010 1月 | 2010 2月 | 2010 3月 | 2010 4月 | 2010 5月 | 2010 6月 | 2010 7月 |

2010 8月 | 2010 9月 | 2010 10月 | 2010 11月 | 2011 12月 | 2011 1月 | 2011 2月 |

2011 3月 | 2011 4月 | 2011 5月 | 2011 6月 | 2011 7月 | 2011 8月 | 2011 9月 |

2011 10月 | 2011 11月 | 2011 12月 | 2012 1月 | 2012 2月 | 2012 3月 | 2012 4月 |

2012 5月 | 2012 6月 | 2012 7月 | 2012 8月 | 2012 9月 | 2012 10月 | 2012 11月 |

2012 12月 | 2013 1月 | 2013 2月 | 2013 3月 | 2013 4月 | 2013 5月 | 2013 6月 |

2013 7月 | 2013 8月 | 2013 9月 | 2013 10月 | 2013 11月 | 2013 12月 | 2014 1月

2014 2月 | 2014 3月| 2014 4月| 2014 5月| 2014 6月| 2014 7月 | 2014 8月 | 2014 9月 |

2014 10月 | 2014 11月 | 2014 12月 | 2015 1月 |2015 2月 | 2015 3月 | 2015 4月 |

2015 5月 | 2015 6月 | 2015 7月 | 2015 8月 | 2015 9月 | 2015 10月 | 2015 11月 |

2015 12月 | 2016 1月 | 2016 2月 | 2016 3月 | 2016 4月 | 2016 5月 | 2016 6月 |

2016 7月 | 2016 8月 | 2016 9月 | 2016 10月 | 2016 11月 | 2016 12月 | 2017 1月 |

2017 2月 | 2017 3月 | 2017 4月 | 2017 5月 | 2017 6月 | 2017 7月 | 2017 8月 | 2017 9月 |

2017 10月 | 2017 11月 | 2017 12月 | 2018 1月|2018 2月| 2018 3月|2018 4月 |

2018 5月 | 2018 6月| 2018 7月| 2018 8月| 2018 9月| 2018 10月| 2018 11月| 2018 12月|

2019 1月| 2019 2月| 2019 3月 | 2019 4月| 2019 5月 | 2019 6月 | 2019 7月| 2019 8月

2019 9月 | 2019 10月 | 2019 11月 | 2019 12月 | 2020 1月 | 2020 2月 | 2020 3月 |

2020 4月 | 2020 5月 | 2020 6月 | 2020 7月 | 2020 8月 | 2020 9月 | 2020 10月 | 2020 11月 |

2020 12月 | 2021 1月 | 2021 2月 | 2021 3月 | 2021 4月 | 2021 5月 | 2021 6月 | 2021 7月

2021 8月 | 2021 9月 | 2021 10月 | 2021 11月 | 2021 12月 | 2022 1月 | 2022 2月 | 2022 3月 |

2022 4月 | 2022 5月 | 2022 6月 | 2022 7月 | 2022 8月 | 2022 9月 | 2022 10月 |

BACK | NEXT

(C)DANCHOUTEI 2022