断腸亭料理日記2007

鳥越祭2007・参・鶏皮ポン酢・

七軒町本社神輿渡御

6月10日(日)

朝、というよりも昼前、第一食として飯を炊いて、
黒はんぺんなんぞを食べかけて、
雨の中、隣町に本社神輿がきていたので、見に出かけ、
戻ってきて、食べ終わった。

本社神輿はその後、どこへいったかわからないが、
夕方、5:30、また、南から筆者らの町内へくる。

その後、日記などを書いて、
また、15時過ぎ、呑もうか、、。

どうも、お祭だと、呑みたくなってしまって、いけない。

ハナマサへ、なにか見繕(つくろ)いに出かける。

昼前の雨は、ほどなく上がり、もう晴れ間が出ている。

鶏皮。

ポン酢で食べようか。
柿の種、なんぞも買う。

鶏皮はきれいに洗い、毛羽なぞが少し残っているのも
よく取る。

茹で、少し脂を抜き、また洗う。

細く切って、ポン酢しょうゆをかけ、ねぎを添える。


簡単で、うまい。
(呑んでいるのは、チューハイ。)

5時過ぎ、普段着ている浴衣に、半纏を引っ掛け、
麻裏草履(あさうらぞうり)履きで、内儀(かみ)さんとともに、出る。

半纏の下になにを着るのか、という問題で、ある。
ポロシャツや、Tシャツでは、やはり、いけないだろう。

普通、神輿を担ぐ場合の衣装は、いくつかある。

紺の腹掛(はらが)け股引(ももひき)。
これは、皆さんご存知の昔からの職人などの格好。

それから、鯉口(こいぐち)と呼ばれる
ピタッとした前ボタンのシャツに、ステテコ(股引の場合もあるか)。
ステテコとはひざ上あたりまでの、いわゆるズボン下。
また、鯉口は腹掛の下にも着る。

形は鯉口に近いが、もう少しゆるい感じのダボシャツ。
下は同じように、ダボっとしたゴムの入ったズボン。
(タボシャツは、寅さんが着ていたシャツ、で、ある。)

あるいは、素肌(あるいは、鯉口、ダボシャツ)に半纏、
下はふんどし一丁で、ケツ丸出し。
この3タイプくらい。

これらの格好、ようは、板前さんなども含めた昔の職人の格好。
あるいは、和服の下に男が着ていた下着に起源を発するもの。

今では、テキヤ、あるいは“その筋”系の方の格好、であろう。
つまり、これで、半纏を着ていないと、ちょとコワイ人か、あるいは
だらしがない人、になる。

そして、これらの上に半纏を着て、基本的には、帯を締める。
帯は、幅の狭いのと、兵児帯のような幅の広い帯を締めるのと
二通りある。

足元は、素足に雪駄(草履)。
この場合、担ぐ時には裸足(はだし)になる。
それから、ゴム底のついた、紺や白の地下足袋(じかたび)。
あるいは、地下足袋ではなく、普通の白足袋で足袋裸足(たびはだし)。
(祭り用の足袋としても売られているものもある。)
さらに足袋や地下足袋の上に草鞋(わらじ)を履く人もいる。
こんなところであろうか。

ちなみに、浅草には、これらをまとめて売っている、
祭用品専門店という看板を出している店が、なん軒もある。

半纏というのは、着物としては、いわゆる袂(たもと)のない
筒袖(つつそで)で、ある。
着物の上に着るのであれば、本来は筒袖の着物がよいのであろう。

普通の浴衣には袂があり、ちょっと、袖が邪魔になるが、
無理矢理、引っ掛ける、という格好ではある。

浴衣の上に半纏を引っ掛けるというのは、
むろん、神輿を担ぐ人はしないが、
町内でもご隠居さんというのか、お祭に関わらない
町内会の役員さんや、女性などが、たまにしている格好ではある。

筆者など年配でない男がすると、若旦那、というのか、
(馬鹿旦那というのか、、、)ちょっと生っ白いような、
印象になるのであろう。

ともあれ。

隣町からの神輿の受け渡し場所になっている、
春日通りと清洲橋通りの交差点へ向かう。

ここが境ですよ、という目印に、町名入りの提灯が建てられ、
注連縄(しめなわ)、竹が立てられている。
(民俗学的には境界を示すもの、ということになる。)

ギャラリーはさほど集まってきていないが、
鳶頭(かしら)達はもうスタンバッている。


赤い筋の入った、四番組の、役半纏。
昨日も活躍されていた、わ組の方もいる。

神輿は、清洲橋通りを上がってくるのだろうが、
まだ見えない。
どこか、路地から出てくるのであろう。

おっと、見えてきた。

皆、見つめる。


交差点。


いつも朝、食べている、路麺(スタンドそば)、アズマも見える。
大きな通り二本の交差点を神輿が通ると、なかなか気持ちのいいものである。

交差点を渡り、受渡し場所に神輿が下ろされ、手締めをし、
隣町の担ぎ手達は戻っていく。

ちょっとした受渡しの儀式があり、筆者らの町内の睦の代表が
例によって、前に立つ。
担ぎ手達は、この時までは、神輿前方に距離を置いて、
おとなしく座って控えている。
声がかかり、担ぎ手達が神輿へ入る。

普通、この時は、いわゆる端棒(はなぼう)争い、というのがある。
神輿の、棒でも一番先を、端棒、というが、ここを担ぐのが
最も名誉とされているのである。
皆、争って、ここを取り付こう、と、ダッシュ、するのである。
どこの町内でもこれで、喧嘩になったり、混乱することがよくある。

前もって、達し、がしてあるのもあるが、
筆者らの町内は、毎年いたって、おとなしい。特に走ることもなく、
皆、スーッと、それぞれのポジションに着く。


一昨日、配信分で書いたように、一言あり、手締め。
代表の後ろ、帯に、手が伸びているのが見えるであろうか。
押さえているのである。

神輿が上がる。
ドー、っという喚声。

巨大な千貫神輿は、すぐ右折。一本目の路地に入る。


都立白鴎高校南側の路地、で、ある。
道幅は、5m程度であろうか。
担ぎ手達で、文字通り、芋を洗うような状態で、進む。
この路地を真っ直ぐに、左衛門橋通りまで出て、右折。
神輿は午前中(昨日配信分)通ったところももう一回通る。

再び、春日通りを南に渡る。
先ほどは、春日通りを左に曲がったが、今度は直進。
右側に、うなぎのやしま、も見える。


春日通りを渡ったところで、受け持ちは終了。
手締めをして、後ろ側へ、退散。

18時過ぎ、滞りなく、当町内の渡御終了。

このまま内儀さんとは宮入までついていこうか、ともいっていたが、
一休みに、一度戻ることにする。

しかし、一度座ると、もうだめである。
筆者など、酒が入ってたため、眠くなってしまった。

20時頃になる宮入は、提灯に火が入り、やはり、鳥越祭でも見所。
(様々、コワモテの兄ぃなども入り乱れて、いろんなことが起きる
という、側面もあったりする。)

内儀さんは、「いくよ〜」というが、一人で行ってもらうことにする。
そのまま、転寝(うたたね)。

2007年、筆者の鳥越祭は終了、で、ある。

(見てきた内儀さんの話によれば、多少の喧嘩など、トラブルは
あったようだが、宮元の渡御から睦の宮入自体は、滞りなく
終わったようである。)



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