断腸亭料理日記2008

京都考察・・・断腸亭なりの、、

さて。

配信は先週であるが、私にとっては、実際には
もう先々週のことになるのだが、出張で京都へ行き、
先斗町の割烹などへいった。

前置きが長いだの、好不評取り混ぜていくつかの
反響もいただいたりした。

私には、先斗町なり、京都、というところが、
それだけ印象に残った、いや、そんなものではない、
衝撃といってもよいものを得たといってよい。
今さらのようだが。

その衝撃とはなにかというと、
東京という都市が失ってしまったもの、
失いつつあるもの、を、京都は、
まだ、持っている、ということ。
いわれ尽くしたことかも知れぬが、
やはり、それを実感した、ということである。

私は、東京に生まれ育ち、むろんその東京にアイデンティティー
があり、その故郷、東京とは、なんなのか、といったことを
毎度考え、この日記にも書いている。

東京(江戸)というところは300年以上前には、
世界でも有数の、おそらくNo.1の、人口を抱える
大都市であったということ。
これは東京というところの文化だったり、
人気(じんき)というものを考えるには、
大きなポイントであると思っている。

そして、もう一点。今日は、こちらが主である。
江戸、東京はこの400年間、日本という国の首都であるという点。
もちろん、正確にいうと、江戸の頃は、天子様は、
京におられ、その意味では首都は京であるが、
江戸には公方様がいて、実質的には、
日本六十余州、三百諸侯を治めていた。

これに対して、京都である。
千年の都、などと一言で片付けてもよいのだが
もう少し、順を追って見てみよう。

794年(懐かしい数字である、
ナクヨうぐいすなどと覚えたものである。)
平安京として、遷都されてから、
都としての京の歴史が始まったのは、
皆さんご存じの通り。

そして、どこまでが、京が首都であったのか、
なんとなく、ファジーである。
まあ、歴史をみると、貴族政治が終わり、
鎌倉に幕府ができ、一度、室町時代で、京に戻るが、
安土桃山時代には秀吉が大阪城を建てたり、

そして、家康が、江戸に幕府を開いて、
そして、徳川幕府瓦解の後、明治新政府が
東京にできて、明治天皇が、東京に移った。

この歴史も、皆さんご存じの通り。

ちょっとした、豆知識のようなもの。
知ってる方も多いかもしれないが、こんな話もある。

その、明治に入り天皇が長年住み暮らした京を離れ、
東京と名が改められた江戸へ移った当時、
保守的な公卿らの反対を恐れて、新政府は、正式には
遷都、といっていないという。

そして、今でも、京都には、御所が依然として存在している。
まあ、今の時代、京都が首都である、という人はいないだろうが、
京都という場所は、単なる地方都市ではむろんなく、あるいは、
奈良のような古都(滅んでしまった都というニュアンスで)
といわれることもあまりないだろう。京都は、京都。

江戸に幕府が開かれているときにも、天皇はあって、都としての
地位は継続していた。
京へは上る、江戸へは下ると、依然としていっていた。
さらに、明治以降、今みたように、現在に至るまで、
平安遷都から、千二百年の間、京都は、
ある特殊なポジションを有形無形に持ってきたことは、
確か、で、あろう。

京都というところは、やはり、こうした精神的な面での
“都”であり続けている、と、いえるような気がするのである。
これは、日本人全体でもある程度そうだと思われるし、
それ以上に、京都の人々にとってより強いのではなかろうか。

ちょっと、長くなってしまったが、
結局なにがいいたいのかというと、
京都人には、この、都である、という意識、がある、
と、いうことなのである。

東京人は、首都であるという意識を持っている。
江戸の頃ならば、公方様お膝元、なんという表現があるが、
これである。
これはつまり、首都に住んでいるというプライド。

前に東京の人気(じんき)として、大都市に住んでいる、人が多い、
ということで生まれてくる、マナーや生活意識というようなことを書いた。

それもあるのだが、江戸東京では、首都だから、
公方様お膝元だから、プライドを持ち、
より“チャンとしなくてはいけない”、という
意識が生まれてきているようにも思うのである。
(前に、東京のそばや、らしさに、“チャンとしている”
ということを書いたが、それも然(しか)り、だと思う。)

京都の町や、人々にも、同じものがある。
いや、京都の人の方が、むしろ、これは純粋で
強いのかもしれない。
冒頭に、東京がなくしつつある、と書いたが、
京都は、まだまだ、頑張っている。
そう思うのである。

一見(いちげん)で、一人の客に外まで出てきて
頭を下げる、割烹のご主人。
“チャンとしている”は、こういうこと、
に、あらわれるのではなかろうか。

と、ここまでは、都であることで生まれてくる
京都らしさ、というもの。

そして、もう一点。
戦災がなかった、ということもあるが、京都に多く残る町屋。

その町屋を支えるのは、博物館ではない、むろん住んでいる人々。
京都には、室町時代から続く、町衆(まちしゅう)という
伝統がある。江戸でいう町人であるが、それよりはるか前から、
市民として自立をしているものとして日本史では説明される。
商売を営み、町の自治だったり、をするという意味での
自立、で、ある。また彼らは財を貯え、
文化を生み出す母胎にもなってきた。

江戸400年どころのものではない、600年以上の
町と人々の歴史である。
それが、先日書いた、祇園祭の(財)長刀鉾保存会、なのである。

(東京であれば、町内会組織である。
京都ではそれを財団法人組織にして、
保存しているということである。)

こうした町衆の文化をきちんと守っていくことが、
600年の伝統を持つ京都町衆の誇り
なのであろう。


京都という場所、“都”であることへの誇り。
そして、その構成員である、自立した町衆として誇り。

私の感じた衝撃を分解し、まとめると、この二つ。

そして、最後にもう一つ。

日本橋に引き比べた、空の下の、三条大橋、で、ある。
これはどちらであろうか。
おそらく、両方なのであろう。

千年の都の入口、
700年の伝統を持つ人々の町としての美しさ。
これを守っていくのが京都人という人々。

やはり、今の東京人がなくした、
江戸人から受け継げなかったものを
守っている、と、いえるのか、、。

(さて、東京人は、どうするのか。)




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