断腸亭料理日記2009

烏亭焉馬、の、こと

さて。

今日は、少しいつもと、毛色が違うのだが、
烏亭焉馬、と、いう人物のこと。
まず、この人、烏亭焉馬は、「うていえんば」と、読む。

前に一度、江戸の頃の狂歌師、文人、蜀山人大田南畝先生
ついて、書いてみたことがあった。

この時にも、少し触れた。
南畝先生と、世代としては、ほぼ同時代人。
立川焉馬などとも、名乗り、名前から察せられようが
落語、中興の祖、などともいわれている人。

このとき、今度調べてみようと、自分への宿題にしたのだが、
今回、烏亭焉馬を中心に書かれた、
『落語はいかにして形成されたか』(1986 延広真治)
という研究書を読んでみた。

烏亭焉馬という人は、本名、中村英祝、屋号は、和泉屋で、
通称、和泉屋和助。
寛保3年(1743年)本所相生町、両国橋のそば、赤穂浪士の打ち入った、
吉良邸(隣の松坂町)のあったそばで生まれ、家は、代々の大工。

それも、ただの大工ではなく、棟梁でもあり、さらに、
幕府の「小普請方(こぶしんがた)」に出仕もしており、
堂々たる身分。

大工の棟梁ということもあり、世話好き。

歌舞伎好きで、中でも五代目市川団十郎の熱狂的なファン。
贔屓連の有力者。

この時代、先の南畝先生もあり、盛んだった
狂歌も好きで、「鑿釿言墨曲尺(のみのちょうなごんすみかね)」
なんという、大工らしい狂名も持っていた。
また、南畝先生とも、むろん、親しく、後年、南畝先生が暮らした、
駿河台の屋敷の建築も、焉馬が差配した、と、いう。

南畝先生とほぼ同時代と書いたが、少しだけ、
時代背景に触れると、焉馬の40代、天明、
1740年代前半が、例の、田沼意次が失脚した頃。
その後、松平定信の寛政の改革時代があり、文化文政の
化政文化花盛りの頃、と、なる。

焉馬が亡くなったのは、文政5年6月2日(1822年)、79歳。
南畝先生が翌年、75歳で亡くなっており、
先生も長生きだが、焉馬はこの時代としては、そうとうな
長命、で、ある。

落語中興の祖、と、いわれている、と、先に、書いた。
しかし、結論からいうと、この人は、現代に続く、江戸落語の(中興の)祖、
と、いういい方には、なんとなく、ストレートにそうですか、
とは、いいにくい、というのが、まず最初の私の印象である。
(むろん、関係はそうとうに深いのだが。)

むしろ、この烏亭焉馬の後に続いた、初代三笑亭可楽、
同三遊亭圓生、同林屋(家)正蔵が、今に伝承されている
芸としての江戸落語の祖、と、いう言葉が、すんなりあてはまるように思う。

つまり、芽だけは、焉馬は作ったが、
その後の世代の三人などが、文化文政時代を背景に、
噺というコンテンツそのもの、あるいは、
演じる場の寄席というところ(システム)を作り、落語だけで、
生計を立てる、プロの噺家となっていった、というのが
正しいのではないかと思われる。

(これ以前から、身振り声色(こわいろ)、浮世物真似、
といったモノマネ系の芸人、あるいは、木戸芸者といって
歌舞伎芝居などの客寄せに、芝居小屋の木戸口で
口上を述べたり役者の声色を使う芸人など、噺家に近い演者は、
古くから存在したようである。
しかし、落し噺をする、プロの噺家は焉馬の頃にもまだおらず、
正確には、三笑(山笑)亭可楽が最初といえるようである。
これら三人などについては、また、別の機会に書いてみたい。)

では、なぜ、この烏亭焉馬という人が、
落語中興の祖という、いわれ方をしているのか、と、
いうことについて、述べてみよう。

いや、その前に“中興の祖”といわれているくらいなので、
元祖、が、いる。
この元祖から説明をしよう。

ご存じの方も多かろうが、鹿野武左衛門という人物を、
一般には江戸落語の元祖として、説明をしている。
この、鹿野武左衛門なる人物は、江戸も、時代はさらに
前の、元禄の頃。「座敷仕方話」(ざしきしかたばなし)
などといわれ、芝居小屋などで、身振り手振りを交えて、
おもしろおかしく、話をする、というもの。
(それ以外にも、大名の御伽衆(おとぎしゅう)といった
権力者や、有力者のそばへ侍り、あるいは、出向いて、
話をするものを落語の起源とする場合もある。)

で、あるが、この鹿野武左衛門という人物の芸と
焉馬とは関連はほとんどない。
(また、芸、と、すれば、むしろ、先の、身振り声色、浮世物真似、の方が、
初代三笑亭可楽などの現代に続く噺家に近いとは思われる。)

では、焉馬はなにをした人なのか。
(やっと、核心に入ってきた。)

天明6年(1786年)、第一回の『噺の会』というものを
向島の料亭武蔵屋で開いた、という。
(ちなみに、この年は、田沼意次の失脚の翌年で、
すでに田沼政治は終わっていた頃。だが、松平定信が
老中になるのは天明7年で、さらに翌年で、ある。)

この、第一回『噺の会』を以て、一応のところ、
江戸落語の再興ということになっている。

では『噺の会』とはなにか。
いくつか概略、特徴を挙げてみよう。

参加者は焉馬の仲間。
三升(みます)連という、団十郎の贔屓連(ファンクラブといったらよかろうか。
後援会といったらよいか。)を中心に、大田南畝、
あるいは、朱楽菅公(あけらかんこう)といった、狂歌師、
文人、文化人仲間、100名という大人数を集めて、
「催主である焉馬は寄せられた落咄の披講を勤めた」(前出)
ということである。

噺の内容には、小噺も含めて、現代の落語につながっているものも
ある程度あるようである。

しかし、参加者の自作品の公募というような形を取っていた
という点は大きな特徴であろう。
(ある程度、主催者、焉馬の、今いう、“仕込み”
もあったようではあるが。)このあたり、俳諧、
川柳、狂歌、などの会、と同じような体裁を取っていたということ。
また、不特定多数からお金を取ってというものではなく、
仲間内の遊び、というものであったということ。

また、演者は主催者である焉馬自身で、
“披講”したこと。
(噺の会では、「落咄を互いに披露する」(同)という
形もあったようである。)

焉馬主催の『噺の会』はその後も「向(むこう)両国尾上町の
京屋などの料亭が使用され」(同)、段々に盛んになり、
当初は一年に一回程度であったのが、「そのほかに焉馬の自宅などで
定会(じょうかい)が行なわれ」(同)るようになった。

また、この『噺の会』の落咄の内容は、『喜味談語』(きみだんご)、
『詞葉(ことば)の花』、『無事志有意』(ぶじしゆうい)の
三冊が咄本として編集、上梓された、と、いう。

やはり、大田南畝などの参加もあり、
文芸性が高いというのか、庶民のものではなく、
文化人の仲間内のものから、少し広がっても、
今でいう、サブカルチャーではあろうが、
いわゆる、誰でもいい庶民対象ではなく、
知識階級の遊びの範囲を出ていなかったのだと思われる。

しかし、一方で、先の、本当の今の落語に続く、元祖噺家の
三笑亭可楽などは、実は、この『噺の会』にも頼んで、
参加させてもらっているようであるし、
実際に、可楽、圓生などプロの噺家になっていった
何人かは、烏亭焉馬の門人ということにもなっている。
このあたり、人的にはつながっている、とはいえよう。

先に述べたように、その後の落語家成立の頃の
噺の中身自体との共通性は、ある程度あるようだが、
『噺の会』の頃には、さほど長い噺はなかったというのも
特徴のようである。
(これは、可楽以降のプロは、商売として噺を聞かせて金を取る以上は、
長くして、より楽しませる必要があり、エンターテイメント性というのか、
演出上のこともあったようである。)

また、焉馬と可楽以降では、噺の中身以外に、共通する点もあった。

演じ方として、先に触れたような、身振り手振りや、声色を使う、
それ以前の話芸とは一線を画し、それらを使わず、
素咄(すばなし)という形体を取ったということ。
素咄は、焉馬の『噺の会』から発生し、三笑亭可楽へ
受け継がれ、これが、今の落語にもつながっているという。
『「立川流のはなしは今にすばなしとて扇一本のむかし噺」
(『昔噺当世推故伝』)(同)』といわれたらしい。

(蛇足だがやはり、烏亭焉馬は今の談志家元に続く、
立川の祖であるというのも、間違いのないこと。
(由来は、むろん、本所を流れていた竪川である。))

さてさて。

そんなこんなの、烏亭焉馬師と『噺の会』周辺のこと。

今回読んだ『落語はいかにして形成されたのか』の
タイトルのように、現代に続く落語が生まれた瞬間は、
どこか、といえば、やはり、烏亭焉馬師匠の『噺の会』は
間違いなく、それにあたるであろう。

口承文芸としての落語は、語られる口調だったり、
話し方、が、とても大きな要素であり、定義づけるものと
いえるだろう。
そういう意味で、最後に触れた、焉馬が素噺を始めた瞬間を
落語の発生と見ることができるかもしれない。

それで、結局のところ、落語の発生は、焉馬師で、
伝承される口承文芸家で(なおかつ、それで、生計を立てる)、
落語家の成立は、可楽師である。
そのように、いえるのかもしれない。

P.S. まだまだ、この本を読んで、考えたことなどもあり、
これらは、また、日を改めて、書いてみたい。









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