断腸亭料理日記2010

池波正太郎と下町歩き12月 その3











現代の地図


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江戸の地図

さて。

今日も引続いて『講座』の12月。

柳橋花柳界、の、こと。

柳橋、の歴史を調べていくと、
どうしても、江戸芸者というのは、そもそも
どうやって成立してきたか、というところに
さかのぼっていくのである。

一般に、江戸芸者起源は、江戸期初期の“踊子”と
いわれている。

戦国時代から、安土桃山、豊織政権の頃、京都を中心とする
上方では、白拍子と呼ばれる中世の芸能者あたりにつながる
例えば、有名な出雲阿国のような踊りを職業とする主として、
女性がいたのであろう。

これが、新興の街である江戸へも流れてきたことは
想像に難くない。

江戸歌舞伎の始祖である、初代猿若(中村)勘三郎なども
京の出身で、江戸へきて、歌舞伎芝居を始めた。

そして、この“踊子”達は、当時の武士の屋敷で行なわれる
宴席に招かれて、踊った、という。
このあたりは、様々な史料にも出てくるので間違いのないところ
で、あろう。

そして、当時の芝居町、現在の日本橋人形町あたりの
堺町、葺屋町近くに住んでいたのではないか、と、想像される。
芝居町には芝居茶屋があり、また、明暦以前は、吉原遊郭も
隣町の葭町にあり、こうしたころにも“踊子”は出入りし、
踊りを踊っていたのではないか、と、思われる。
(このあたりのこと、実際には、明確な史料を私自身
見つけられておらず、江戸芸者の起源といってよいのかは、
はっきりしたことはいえない。)

この後、史料にでてくるのは、
1781年〜1788年、天明頃(田沼時代前後)。
堺町、葺屋町、あるいは葭町といったところからも
さほど離れていない、橘町(今の馬喰横山駅周辺)が
踊子の町、ということで文献に登場する。

葭町の吉原が浅草田圃へ移転するのが1657年(明暦3年)なので、
少なくとも、100年弱の開きがある。

このため、江戸初期の踊子と、天明期に登場する、
踊子が続いているのかどうか、このあたりは、藪の中なのだが、
この橘町の踊子がどうも、明治以降まで続く、江戸芸者の最初、と
いってよさそうなのである。

その後、橘町から、その周辺の町々(住吉町、長谷川町、新和泉町、
新材木町、柳原同朋町(後年の柳橋南側)、薬研掘米沢町など)
日本橋東北部一帯に広まったようである。

この頃、美しい娘が多数、歌麿などの一枚絵などに描かれ、
ブームともいえる状況にあり、一枚絵の禁止令も出されている。
水茶屋の娘ということになっているが、中には踊り子も
含まれていたようである。

歌麿/薬研掘・高島屋おひさ
(これは例の蔦屋重三郎の仕掛、で、ある。)

薬研掘高島屋のおひさ、というのは、水茶屋の娘。
水茶屋とは、寺社門前など盛り場の茶店で
接待をした女性である。(実際には、芝神明で見たように、
裏へ回れば、お客も取るのは周知のこと。)

で、この薬研掘の水茶屋は、おそらく薬研掘不動の
門前の水茶屋というものになろう。薬研掘は先の橘町からは
目と鼻の先。そうとうに、橘町の踊子とは近い関係であろう。
しかし、厳密には踊子と、水茶屋の娘は、違っている。
違ってはいるのだが、当時花形の人気の娘で、
おそらく、もう少し時代が下って、踊子と一緒になり、
芸者になっていったのではなかろうか。

そして、もう少し、時代が下って、文化文政期。

このあたりから、商売の形態も明解にその後の
江戸芸者の元になる形が現れている。

文政年間に、町の踊子に、一大取締りが行われ、
家1軒に踊子は1人などと決められた、と、いうのである。

本来はその家の娘のみ。
ここから、芸者屋の主人をお父さん、お母さんと呼ぶ、
あるいは、養女にする風ができたという。

また、外を歩く時も、華美な着物はだめで縞ものなど普段着で、
座敷に着いて着替える。三味線なども折って、箱型に。
これも、その後の江戸芸者の姿の原型になっていったようである。
(注意したいのは、この時期でもまだ、お触れ書きなどの
公文書には、芸者ではなく、踊子、という言葉が
使われていることである。)

ともあれ。
この文化文政期には、その後の芸者置屋、芸者屋に
あたるものができており、そこから料理屋などの座敷に
呼ばれていく、という形の、後の芸者商売が、形成されていた、
ということである。

そういえば、1815年(文化12年)の大田南畝先生67歳の頃の
「七々集」という歌集には、『歌妓』という表現で
馴染みの娘を呼ぶ、というのが出てきていた。

呼ぶ場所は、日本橋呉服町の友達の家の酒席のようである。

南畝先生は『“踊”子』ではなく、
『“歌”妓』として記しているところに注目したいのである。
後の芸者というのはむろん踊りも踊るが、
それは比較的大きな宴席で、1人2人の少人数であれば、三味線で
小唄、端唄、都々逸なんぞをちょいと、唄う、という方が
イメージ、で、ある。
そういう意味で、この『歌妓』という言葉は、
いかにも芸者的なものを指していそうではある。
ただし、呼ぶ場所が友達の家で、後の、待合、料亭ではない。
明治以降、芸者の出先は、地域と業態が公的に定められていた。
むろん例外はたくさんあるが、気軽に、私邸に呼ぶというのは、
あまり一般的ではなかったと思われる。

ともあれ。
江戸芸者は、田沼時代、日本橋橘町あたりに原形が現れ、
界隈に広く分布するようになり、化政期に
その商売形態が定まっていった、と、いうことが
いえそうである。
(今の段階では、柳橋を含めた日本橋北部では、
もう一方の業態、水茶屋の娘が活躍していたがそれは、
その後の芸者との関係において、まだ今一つ、定かではない。)

一方。

両国、特に、西両国のこと。
どのくらいからのことなのか、起源はよく調べていないが、
江戸後期には、両国橋の西詰は、広小路にもなっており、
朝は、青物市が立ち、見世物小屋、簡易の芝居小屋、
大道芸、屋台などが立ち、にぎわった、一大盛り場であった。

で、その西両国の盛り場を背景に、その南北の接しているところ、
南は薬研掘、北は、神田川をはさんで、柳橋の両側。
ここに、水茶屋から、料理屋が立ち並び、芸者屋(にあたるもの)が
化政期から幕末にかけてできていった、と、
いってよいようである。

そして、幕末、天保の頃になる。



明日につづく。





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