断腸亭料理日記2010

池波正太郎と下町歩き12月 その4











現代の地図


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江戸の地図

引続いて『講座』の12月。

柳橋花柳界の歴史。


天保に入り、一大事件が起こる。

だが、これは、深川のことが発端。

深川は、柳橋と並んで、江戸までさかのぼれる
芸者である、ということは通説になっている。

辰巳芸者などとも呼ばれ、深川七場所などといわれる
岡場所(私娼)がもとになっている。
これが、天保の改革で大規模な取締りにあい、
大挙して柳橋に移ってきた、というのである。

そして、幕末、慶応2年の記録では、芸者の数は、
両国辺で114人にのぼり柳橋は江戸一の規模になっていた。

そして、明治。


木場を控えた、深川の辰巳芸者は羽織芸者ともいわれ、
羽織を引っ掛け、男っぽい喋り方、気風(きっぷ)がよいのを
売り物にしていた。
この風が柳橋にも受け継がれ、先月みたように

当時、地方出身者の多かった新橋やその後の赤坂に比べ、
ほとんどが東京あるいは周辺出身者で、柳橋は、
江戸っ子芸者を誇りにしていたというのである。

客筋も『下町の大店の主人とか米屋町あたりのが多い、
官吏や会社方面でも灰汁(あく)の抜けた連中のみが、
此の里へ足を踏み入れる。』
(『全国花街めぐり』松川二郎 1929年/昭和4年)

などと、ものの本には書かれている。
(ここの“米屋町”というのは、蔵前の札差のことを
指していると思われる。)

1922年(大正11年)料理屋・待合合計117、芸妓屋206(芸妓366)。
(芸妓屋の数が芸妓の数より少し多いだけ、というのは、多くても
抱えは2人、と、柳橋の場合、芸者屋の規模は小さかったことが分かる。)

その後、昭和に入り料亭待合組合員数は、戦中の1943年68。
戦後の1955年に一時回復し、料理屋・待合合計73、を最後に、
1972年19となり(数字は「花街 異空間の都市史」加藤政洋より)
徐々に衰退、1999年「いな垣」廃業を最後に、『組合』がなくなり、
事実上、柳橋花柳界は消滅している。

東京の他の花柳界は、戦後にもう一度ピークを迎えている
ところもある。しかし、柳橋の最盛期は戦前の大正の頃、
と、いうことのようである。

花柳界といえば、やはり、荷風先生。
新橋だけではなく、ここにもむろん、足からなにから、
踏み入れておられたのであろう。
作品にもいくつか登場する。

柳橋の他との違いは、やはり、江戸っ子芸者という
プライドであったようである。
これは、戦後、風前の灯になっても、料亭経営者から、
聞こえてきた『ナカ代(田舎の代議士)は嫌いだ』と
いう言葉にも含まれている。

それゆえ、消えてゆくのも、
他よりも少し早かったのかもしれない。

有名店は「いな垣」、「亀清楼」、「柳光亭」、「深川亭」、「田中家」など。
ちなみに、値段は昭和初期「大芸妓、2時間1座敷、5円50銭」
(前出『全国花街めぐり』)。(当時の教員初任給50円で、
今の2〜3万くらい?)。

さて。

そんなことで、江戸の芸者史と柳橋の歴史の考察はおしまい。
柳橋の橋を北へ戻り、マンションの1階の亀清楼
を右に見て、隅田川から2本目の細い路地に入る。

この路地を北へ上がったところに、柳橋の美家古鮨が、ある。


美夜古鮨


創業は文化年間(1804〜1818年)という。
当初は、屋台で、慶応2年、二代目の頃に、店舗となったという。
以来、200年、当代で六代目。(同系統の浅草の弁天山美家古は
慶応2年の創業という。)

にぎり鮨の考案は、華屋与兵衛と、いわれている。
(この『講座』の両国〜森下の回で跡へいっている。)

華屋は1824年(文政七年)両国で開業とのこと。
ということは、柳橋美家古鮨の方が古いようにもみえる。
このあたりのこと、おそらく、きちんとした記録のようなものもなく
詳細は不明。だが、いずれにしても、美家古鮨は古く、
にぎり鮨発祥の頃の流れを汲む、ということは間違いなかろう。
大正から昭和初期、柳橋花柳界華やかなりし頃は
料亭へ出張して握るなど、大繁盛であったという。

今でも、ここを含めて、神田鶴八など、
この系統は、ねたと酢飯の割合が、普通よりも
酢飯大きめ、という、昔の形を(比較的)守っている。

さて。

お店の前で説明をしていると、この美家古鮨の看板には、
『柳ばし代地』と、書いてあるのだが、
この“代地”、とはなにか、という質問があった。

花柳界であったの柳橋一丁目の隅田川側は、以前は、浅草代地、
あるいは、柳橋代地と一般にいわれていた。

現在でも、榊神社の祭りではこの町内は、「代地」と
書かれた半纏を着る。
上の江戸の地図を見ていただきたい。
○○代地という文字がいくつも見え、江戸の頃このあたり、
各町の代地が集まっていたことがわかる。
ここから、このあたりは「柳橋代地」と
呼ばれるようになっていったようである。
また、隅田川河岸は、代地河岸といわれていた。

美家古鮨から北へ上がり、総武線のガードをくぐり、
隅田川側へ曲がる。
高架下を歩くと、川に沿った一本目の通りにぶつかる。

これを突っ切ると、隅田川の堤防を越えて、
川っ淵の、親水テラス、と、呼んでいるところに
降りられる。

川面の直近まで降りられるスペース、で、ある。
皆さんを引き連れて、ここへ降りて、北へ歩く。
考えていたコースは川から一本目のつもりであったが、
あちらは、ビルの谷間の通りで、おもしろくもない。

天気もよく、柳橋の上から見たように、
川の流れも、気持がよい。
向う河岸、北の方には、建設中のスカイツリーも
きれいに見えている。
(皆さん、デジカメを構えている。)

今日などは、のんびり歩くには、持ってこい、で、ある。



こんなところで、今日はここまで。
また明日。






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