断腸亭料理日記2010

池波正太郎と下町歩き12月 その5











現代の地図


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江戸の地図

引き続いて『講座』の12月。

隅田川の親水テラスから上がり、川から一本目の道に戻る。
(現代の地図にマークを入れた。1から降りて、2で上がった。)

ここから再び、南下。

今でも残っている旧料亭の建物を見るためである。
親水テラスをずいぶんきてしまったので、
少し戻る格好になる。

残っている建物は、最後まで柳橋料亭の看板を守った
『稲垣』で、ある。

おそらく、まだ、住んでいる方がおられるのであろう。
むろん、営業はしていないが、外から見たところでも
きれいな状態である。

旧『稲垣』からもう少しいくと、
ルーサイトギャラリーというギャラリーがある。

塀は高い料亭風だが、『稲垣』と比べれば間口は半分ほどであろうか。
名前の通り、ギャラリーだがカフェでもあり、
川面を見ながら、お茶も飲める。

市丸さんという歌手をご記憶の方はおられようか。
戦前から戦後、小唄といえば、市丸さん、といわれ、
TVでも活躍した。(私も、おぼろげながら覚えている。)

その、市丸さんの自宅であった建物を、
今はギャラリー兼カフェとして営業している。

この、ギャラリーの前から、蔵前通り(江戸通り)の方へ
折れる。

少しいって、左側、ビルの地下にあるのが、洋食の大吉

ここは池波レシピ。
エッセイ「新しいもの古いもの」に書かれている。


下町の洋食やらしい、洋食や。

大吉の先の路地を右に入り、北上する。

このあたりの路地はマンションなどに交じって、
おもちゃや、雑貨などの小さな問屋さんなど。

T字路にぶつかるが、左折、さらに右折。

真っ直ぐいくと、神社の前に出る。
ここから北側は、それまでの柳橋とは
街並みがかわっている。

区立浅草中学、都立蔵前工業高校など学校や、比較的
大きな建物、施設の敷地になっている。

これは、元、ここが江戸幕府の米蔵、浅草御蔵、
で、あったことによる。

上の現代の地図にラインを入れたが、実際には、
浅草御蔵の敷地は、道二本ほど、南側だと思われるが、
この周辺から北側、厩橋の手前まであった。
明治になり旧米蔵の広大な敷地を利用して、
様々な公共機関のなどの建物が建てられていった関係で、
今でも中学校、高校、蔵前警察、NTTなどの
施設になっている。

さて、この榊神社。

この神社は、もとは、最初に見た、柳橋の篠塚稲荷の
隣にあった、第六天。このため、榊神社の正式名称は、
第六天榊神社というようである。

第六天とは、仏教で、他化自在天ともいい天魔の別称。
天魔は他人の楽しみを自由に自らのものとすることができるという。
仏教の神を祀ったものであったが、明治になり
神仏分離で面足尊(おもだるのみこと)、
惶根尊(かしこねのみこと)を祭神としている。
昭和3年現在地に。

この神社は柳橋代地をはじめ、この界隈の鎮守で、
神輿の出る祭りがある。

そして、この神社の境内には、二つの記念碑がある。

一つは「東京工業大学創立の地」。
いわゆる、東工大、で、ある。
1881年(明治14年)我が国初の、工業教育機関として
幕府の浅草御蔵跡地に、この地に東京職工学校として開かれた。
その後、東京高等工業学校となり通称“蔵前”といわれていた。
震災後、現在の大岡山へ移転。

もう一つ。浅草文庫。
これは、1874年(明治7年)明治新政府になり、
旧幕府の浅草米蔵に収納し閲覧所を設けたもの。
1881年(明治14年)、上野公園に新築された博物館構内へ移され
幕を閉じる。今は、上野の国立博物館あるいは、国会図書館に
保存されているという。ほんの7年ほどの間である。
これも、大きな敷地と蔵があった浅草御蔵跡の利用例
と、いってよかろう。

さて、ここから、蔵前通りに出る。

出たところは、須賀橋交番前の信号。

なのだが、須賀橋というのは、今はない。
橋であるから、川があったわけである。

川の名前は、鳥越川。
江戸の頃からむろんあり、この蔵前通り=奥州日光街道を
横切って浅草御蔵の掘割となり、大川へ注いでいた。

橋は2本。
江戸期は、長さ5間、幅3間。

その頃は、鳥越橋、あるいは、近くに天王社があったので、
天王橋とも呼ばれていた。

鳥越川は、ここから西へ流れ、今の清洲橋通りの手間で
右に折れ、北上。今の佐竹商店街のあたりで少し大きな堀、
三味線掘となっていた。(さらにこの源流は、根津を流れる藍染川で、
不忍池、上野広小路の三橋、名前も忍川となり、東に向かい、
界隈の武家屋敷の小さな堀に分かれ、三味線掘に続いていた。
そういう意味では、細い流れながら、台東区を縦断している
数少ない川、で、あった。)

さて。
その天王社。
今は、須賀神社。

須賀橋交番の信号で向こう側に渡り、少し浅草橋方向に戻り、
右側。

江戸期の天王社とは、牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったもので、
いわゆる祇園社である。社といいながら牛頭天王はやはり
本来は仏教の神で、これまた、明治に神仏分離で
素盞鳴尊(すさのおのみこと=古来から牛頭天王と同一視
されていた)を祀る、神社となっている。

で、この界隈ではもう一つ。
この天王社と並んで、界隈では知らない者はないくらい
有名であったのが、閻魔堂(華徳院)。

江戸期から天王社の隣には閻魔堂があり、新宿太宗寺、
下谷坂本善養寺と並んで江戸三大閻魔といわれ、
参拝客で大いににぎわったという。
震災後、閻魔堂は、杉並区松ノ木に移転している。
その閻魔像は運慶作ということで名高かった。
江戸期、閻魔参りは盛んで、いわば人気のお参り。
正月と盆の7/16が縁日で、閻魔像の開帳なども行われた。

正月とお盆は、ともに、地獄の釜の開く日である。
江戸の頃、人々は年に二回、盆と正月に、地獄をのぞくことにより、
民俗学的にいえば、死と再生をし、日々の暮らしにまた、
戻っていったのである。

と、いうことで、今日はここまで。
つづきは、また来週。





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