断腸亭料理日記2010

池波正太郎と下町歩き11月 その7

引き続いて、講座「池波正太郎と下町歩き」11月。
昨日は旧新橋停車場の復元展示まで。







現代の地図


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江戸の地図(銀座南・木挽町方面)


ここからは、木挽町をまわって、銀座の資生堂パーラーへ。

新橋停車場前の通りは、昭和通り。
むろん名前の通り、江戸の頃は、ない。
昭和通りは、関東大震災の復興事業として
できている。
また、昭和通りと並んで、この界隈の震災後の大きな変化は、
三十間掘が埋められたこと。

三十間掘というのは、上の江戸の地図(銀座南・木挽町方面)を
見ていただくとわかるが、銀座の東側を南北に流れていた堀。
これは真っ直ぐ北へ上がり、東西に流れている京橋川に
ぶつかっていた。
(参考:銀座北側の江戸の地図

この東岸が木挽町、西岸が三十間掘町であった。
今は完全に埋められており、痕跡すらない。

いや、少しだけある。
今、晴海通りを和光のある銀座4丁目の交差点から、
東銀座方向にくると、地下にシネパトスという映画館がある
ちょっと、妙な一画がある。
この映画館のある脇に側道のような半円形の路地がある。
これが三原橋の跡。
この下を、三十間掘が流れていたのである。

そして、なんとなく三十間掘と混同されている方も
いるかもしれぬが、さらにその東の木挽町を
南北に突っ切って、昭和通りを作ったのである。

新橋停車場の建物から右手に出ると、
上を首都高が走る、昭和通りの大きな交差点になる。

首都高が走っているのは、
外濠が今の新橋駅の北で分かれた、汐留川の跡。
右へ道なりに行くと、浜離宮。

この交差点、名前は蓬莱橋というが、これは、
汐留川に架かっていた橋のもの。
江戸の地図では汐(塩)留橋となっている。

ここには歩道橋があるので、対角、昭和通りの東側に渡る。

この渡った一本奥の一画から、今の新橋の料亭街になる。
現代の地図でご参照いただきたい。
竹葉亭、東京吉兆など。

華やかなりし頃のこのあたりのことは
私は記憶にはないが、今は、オフィス街に
ポツン、ポツンと料亭があるというところ。

竹葉亭、吉兆の店の前を通って、戻り、
昭和通りを西へ渡り返す。
(エスカレーターのある歩道橋がある。)

真っ直ぐくると、銀座通りで、資生堂パーラーの前。
ここがゴールだが、その前に、そのまま突っ切って、
一本西側の通りまでくる。
この通りは、金春屋敷跡の通りで、いわゆる、新橋芸者の
発祥の地というのか、その昔、芸者屋、待合が軒を連ねていた
ところ。

・金春屋敷跡

江戸初期、能楽金春流の家元の屋敷があり、
屋敷移転後もここは金春屋敷と呼ばれていた。

・新橋花柳界 『明治の元勲も通った新橋』

新橋花柳界という言葉はご存知の方も多かろうが、
実際にどこのことか、今となってはご存知ない方も多いかもしれない。
新橋はもともと、芝口御門の橋の名前で、江戸の頃は、
主としてその北側、つまり、今の銀座側を呼ぶ地名であったのである。
それが、明治になり、鉄道の駅が現在の新橋側にでき、
徐々にそちらを新橋というようになっていった。
新橋花柳界という場合、新橋駅側ではなく、
銀座、木挽町側のこと。

・金春芸者

新橋花柳界の起源は、金春屋敷と呼ばれたところの周辺の金春芸者であった。
しかし、幕末の頃、江戸で芸者といえば、柳橋、というのが通り相場で、
安政の頃は50名ほどがこの界隈に散在していただけ、といわれている。

・柳新二橋

明治維新となり新政府の役人として薩長土肥出身者が東京に流れ込んだ。
これに対し、当時一流とされていた柳橋の芸者は江戸っ子を自任し、
そりが合わず、彼らはあまりモテなかった。
当時の官庁街は日比谷、大手町、住居は丸の内、築地、愛宕下などで
彼らは「金春に向かった」という。
これにより金春芸者は江戸からの粋人には嫌われたが急速に発展し、
明治も10年をすぎる頃には、柳新二橋と呼ばれるようになり、
明治18年の記録では柳橋とともに一等地とされ、柳橋の120人を越え、
新橋は228人の芸者の数を数えるようになった。

芸者の風は、芸本位というよりは、年が若く美しい。
新橋駅の近くということからか、名古屋出身者が多く、
新橋といえば、名古屋弁が名物であった頃もあったという。
またそんな新政府役人に愛された新橋芸者だが、中でも明治の元勲で
首相も勤めた西園寺公望の権夫人(側室)に登った者もあった。
(新橋芸者を妻、妾にした有名人は数限りない。明治43年、
永井荷風先生では二度目の妻、新橋芸者巴屋の八重次こと内田八重、
それ以外にも荷風先生は新橋芸者では3人を愛人にしていた。)

・料亭と待合、芸者屋

この頃の新橋は金春周辺に置屋(芸者屋=芸者の住まい)、
待合(=座敷)があり、橋南(烏森)、橋北(銀座八丁目西側)、
釆女(うねめ)町(現歌舞伎座(改築中)の前あたり)、木挽町、
築地に料亭、待合船宿があり、芸者は徒歩または人力車で箱屋を従えて、
待合、料亭へ出向いた。(これを『出先(でさき』といい、
出向くことが可能なところは、新橋に限らず決まっていた。
ここでおもしろいのは、前に触れたが、新橋南地=烏森にも
芸者さんはいたのだが、その界隈の料理屋にも新橋北=金春から
出向くこともあったのである。)

当時、この界隈で芸者が乗る人力車の姿は
名物であったという。

箱屋というのは芸者の衣装を入れる内箱と三味線を
持って送り迎えをしたり、着付けを手伝ったりした者のこと。

この金春周辺と木挽町などの料亭の関係が、先ほど歩いた
昭和通りの東の料亭街と、銀座のクラブ街になっている。
つまり、芸者屋や待合が、今の銀座の高級クラブに
なっていったのである。


と、いうことで、また明日。
明日は読み切り!。







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