断腸亭料理日記2010

池波正太郎と下町歩き6月

日本橋魚河岸から

たいめいけん小皿ランチ

6月19日(土)


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今日も昨日のつづき。

『講座』第三回の日本橋。
三井本館と三越まできた。

江戸桜通りの交差点から、
もう一度、中央通りを渡る。
(ちなみに、この江戸桜通りは、歌舞伎十八番、ご存知、
助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)から
名付けられているようで、その縁で、通りの名前を記した
碑は団十郎の筆であるという。)

この角には刃物の木屋、が、ある。
刃物の木屋は、1792年(寛政4年)創業。

この路地を入る。

このあたりから、日本橋のもう一つの顔、
魚河岸、の、名残が見えてくる。

左側に鰹節のにんべん、の本店。
にんべんは、1699年(元禄12年)創業。
やっぱり、三井越後屋同様、現金商売掛け値なしで、
売り出した、ということである。
今でいう、商品券、贈答用の鰹節の切手を
初めて売り出したのも、この店。

鰹節といえば、東京の人間には、にんべん、以外ないであろう。

真っ直ぐ、路地を行くと、左側に、弁松。
1850年(嘉永3年)弁松として創業。

なん度も書いているので、
もういいか?!

日本橋弁松


木挽町辨松


『当初は、魚河岸関係者向けの飯や、であったが、
我国初の折詰料理「仕出弁当」の専門店。
弁当の煮物はそうとうに濃い甘辛。
たこの桜煮、江戸東京発祥の生麩、つとぶも珍しい。』

と、いうことなのだが、しかし、日本橋弁松、
これだけ甘辛の濃い味を続けているのも、
今時、偉い、と、いえるのではなかろうか。
そして、その上、安い。
私としたら、是非、応援したいと思うのである。

ここから、戻り、ワンブロック、日本橋寄りに歩く。

と、右の角にあるのが、練り物の神茂(かんも)。

『1688年(元禄元年)創業。はんぺんの元祖という。
江戸期の屋号は神崎屋、明治に入り神崎屋茂三郎を
襲名するようになり、神茂、となった。』

で、この界隈は、按針町。

『江戸初期、家康の外交顧問三浦按針こと
ウイリアムアダムスの屋敷があったことで
こう呼ばれるようになった。』

電信柱には、按針町通り、と、書いてある。

江戸初期の英国人が、400年後の東京に
名前を残している、というのも、考えてみれば、
たいしたこと、ではある。

三度(みたび)、中央通りへ。

やっと、日本橋へたどりついた。

正面が、日本橋。

左側、日本橋北詰東側に、魚河岸跡の碑。
魚河岸もなん度も書いている。
当初は、江戸前の漁業権を家康から与えられた佃の
漁師がお城に納めた魚の残りをこの日本橋で売ったのが
魚河岸のもとになっている。

(米国の高名な文化人類学者テオドル・ベスター博士の
その名も『築地』を読んだが、 
ここに、日本橋魚河岸も詳しく書いているので、
こちらをご参照下されたい。)

交差点を、向う側、西側へ渡る。

日本橋の説明をしなければ。

『日本橋

ご存知お江戸日本橋。江戸の中心というばかりではなく、
現代でも各街道の起点となっている。
最初の架橋は1603年(慶長8 年)。江戸期は木造、
明治になり石造りになり、現代のものは1898年(明治31年)に
架け替えられたもの、重要文化財。』

橋を渡る。

橋の真ん中で、皆さんを止める。

ご存知の通り、橋の上には首都高速が走り、
川面も澱んで見える。

やはり、この状態を放っておいていい、とは、
私にはどうしても思えない。
東京の中心、いや、日本の中心の日本橋である。
日の光のもとに置いておきたいではないか。

小泉政権の時に、地下化、という話も出ていたが、
莫大な費用と時間がかかり、棚上げになっている、
という話も聞いたことがある。

どんなに時間がかかってもよい。
いつの日か、頭を覆う首都高は取り払いたい。
私は、そう言い続けよう。
そうでなければ、東京に生まれ育った者として、
先祖の助六に申し訳が立たない、と、思うのである。

日本橋に光を!。

ともあれ。

橋を渡り、南詰西側。

ここは、江戸の頃は、高札場。

『高札場

各種の法令(お触れ書き)を掲示するところ。
南詰、西側にあった。高札場そのものは、日本橋に限らず
人通りの多い場所(例えば、江戸の出入り口である、
四谷や、高輪などの大木戸など)いたるところに
設けられていた。』

そして、向かい側の東側。
ここには、あまり語られていないが、
晒場(さらしば)というのがあった。

『晒場

刑罰の一つとして、科人を一般の人々に晒すものがあった。
その晒場が南詰、元四日市町河岸にあった。
(破戒、相対死未遂、
「日本橋馬鹿をつくした差し向い」という川柳もあった。)』

いわゆる、晒しの刑。
むろん極悪人は、市中引き回しの上(うえ)獄門、、等々、
処刑される者も、晒される付加刑はあったのだが、
晒されるだけが、刑というものあったのである。
ちょっと、おもしろいが、なにかというと、
『破戒』と『相対死未遂』。
破戒とは、坊さんが、戒律を犯した場合。

相対死は、あいたいじに、と、読むが、
ようは、心中、のこと。
心中してしまっては、死んでいるので、罰せないが
未遂の場合、晒された、という。

朝、小伝馬町の牢屋敷から、ここまで連れてこられ、
日中晒され、日暮れには、また、小伝馬町に戻る。
これを三日間なり、行なう、という。

なぜ、心中が罪なのか。
今の感覚では、わかりにくいと思うが、
当時は、一応のところ、封建社会。
心中というのは、親なり、家なり、社会制度の中では
一緒になれないので、死んで、結ばれよう、
台(うてな)の上の、新所帯(あらじょたい)、
というわけである。
まあ、いってみれば、体制への批判者、反逆者、
ということになる。それで、科人(とがにん)、
ということになったのである。

心中はむろん、芝居などにもよく出てくるが、
こうした未遂の例も出てはくる。
落語の「鰍沢」などもそうで、噺の中でも語られるが、
日本橋で晒された後は、男女分けられ、
千束の非人溜(ため)へ落とされた、という。

「日本橋馬鹿をつくした差し向い」、なるほど。

そてさて。

そんなこんなで、たいめいけん、到着。
むろん予約してあり、25人、三階の宴会用の個室へ。

メニューは小皿ランチ。


汗を大量にかいたので、ビールがうまい。



皆様、お疲れ様でした。




たいめいけん




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