断腸亭料理日記2010

池波正太郎と下町歩き11月 その2

引き続き『講座』の11月。
虎ノ門からスタート。
虎ノ門そのもののことから、旧文部省の庁舎まで。

この現在、文化庁になっている庁舎の裏は、
霞が関コモンゲートという再開発ビルができているのは
御存じであろうか。

私は、知らなかった。

これは、


文科省、会計検査院の入っていた中央合同庁舎第7号館が
PFI(Private Finance Initiative、民間委託)事業として
05年着工、07年竣工。東西2棟のツインタワーとして開館された。
東館は33階建て文科省、会計検査院が入居、西館には金融庁に加え、
帝人などの民間企業も入居するオフィスビルになっている。


ということだそうな。
近くへいくと、よくわからないのだが、
虎ノ門交差点の反対側へいくと、
霞が関ビルの前にそびえている
タワー全体がよくわかる。

で、その霞が関コモンゲート再開発によって
出てきた過去の遺物が、現在、文化庁ビルと
コモンゲートの間のスペースに保存展示されている。

これを見るために、文化庁ビルの裏へ回る。

裏へ回ると、ちょっとした緑のあるスペースがあり、
下へ降りる階段がある。
私も、下見にきた時に発見したのだが、
ここに外濠の石垣が保存展示されているのである。

現代の地図


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江戸の地図(霞が関、内幸町側)


現代の地図の方に、外濠の跡に線を入れてみた。

現文化庁のビルは外濠の中。
つまり、外濠を埋めた後、作られた。

ここの外濠は、明治になり徐々に埋め立てられ、
大震災後、完全になくなったようである。

さて。
今度は霞が関方面の江戸の地図をご覧いただきたい。

虎之御門の左側に内藤駿河守の上屋敷がある。
この外濠に接した石垣がその発掘、保存展示されているところ。

この外濠が建設されたのは1613年(寛永13年)。
江戸も初期、三代将軍家光の頃。
江戸城外郭の濠がまだこの頃も建設途中であったのである。

この展示には流石に文科省の敷地内に展示されているだけあり、
学術的な説明が詳細に示されている。

この石垣は誰によって、作られたか。

むろん、幕府なのだが、幕府は諸大名に命じ、作らせた。
外濠の普請はいくつもの工区に分けられていたようで、
この工区の組頭は備前岡山三十一万石池田家。
この池田家の下、加わっていた大名家は、摂津三田三万石九鬼家、
豊後佐伯二万石毛利家他、池田家支藩なども含め、携わったという。

お気付きになられようか、これらは皆、外様の藩であること。

備前岡山池田家は松平姓を許された、格とすれば、
譜代扱いだが、ご存知のように豊臣恩顧の有力大名家。
実際には幕府からは財力を減らされるため、池田家を含め、
このように江戸城の普請を申し付けられていたことがわかる。

もう一つ、おもしろいのは、この石垣の石が、
どこから切り出されたのか、ということ。

伊豆半島の山で切り出され、宇佐美などの港から
船に乗せられ三浦半島をまわって、江戸湾に入り、
ここまで運ばれたという。

(これで、ちょっと、思い出したのだが、
やはり、この夏の『講座』、両国、森下の回の下見で
見つけ、書いた、江戸初期の巨大な軍船兼御座船、
安宅丸のこと。

これも伊豆で建造され、江戸まで曳航され、
森下あたりに係留されていた、という。
江戸城建設の資材は多くが、伊豆半島から、
ということだったのかもしれない。)

ともあれ。

この、外濠石垣の展示は、東京メトロの虎ノ門駅から
コモンゲートへ向かう通路からも横から見られるような
説明スペースが用意されている。

地下へ降りて、これを見て、もう一度地上へ。

今度は、桜田通りを向こう側へ渡る。

渡って左。

日本郵政グループの本社ビル。
その隣に経産省本庁舎がある。

このワンブロック。
これも私も知らなかったのだが、
この一画は、明治の頃の第一回帝国議会で開かれた時の
国会議事堂(仮議事堂)のあった場所なのである。

へ〜、ってなものである。

一回りしてみても、発見できなかったが、おそらく、
碑のようなものも、ここには建っていないようである。

1889年(明治22年)、帝国憲法が発布、同年第一回
衆議院選挙が行なわれた。翌年、ペンキ塗りの木造建築の
仮議事堂がここに建てられ、11月25日、第一回帝国議会が開かれた。
入口は東側で、向かって右側が貴族院、左が衆議院であった。
しかし、翌年すぐ衆議院から出火し、全焼。同年再建された。

入口は東側なので、こちら側の文化庁側ではなく、
向こう側の内幸町側。

「千代田区史」に東京日日新聞のこの、第一回帝国議会の記事が
載っていた。文章がおもしろく、ちと、引用させていただく。


「廿五日の曙の空ほのぼのと明け始めて午前七時ともなる頃、

両議院の門前は早や人の山をなせり。予(かね)ての手筈にや

警吏は院の内外より、一方は練兵場(今の日比谷公園)に、

一方は新し橋を渡りて久保町通りの四つ辻まで五十米を隔てて警備し、

猶(なお)往来の雑踏を制せんとてか往還の道路を左右に分けて

通行せしめぬ。総ての体嬉々たる裏に、厳粛々たる様ありて、

あはれ第一期帝国議会招集の景況よと見受けられたり。

さる程に旭日影ゆたかに昇りて時計の針八時を指す頃ともなれば、

当日招集の上下両院議員諸氏引続き参院ある。

貴族院なるは多くは馬車にて、衆議院なるは人力車なり。

(中略)孰(いず)れも車は一様の新調に、車夫はきり立ての

法被(半纏)、股引、傘の蓋(おお)ひ白々と人避くる掛声も勇ましく、

容子(ようす)も殊に気の利きて見ゆるもげに宜(う)べなり。」

(「東京日日新聞」、括弧内、筆者注。東京日日新聞は、今の毎日新聞)。


久保町通りは、今の桜田通り。であるから、「四つ辻」とは
今の虎ノ門交差点であろう。
日比谷公園あたりから、虎ノ門交差点まで、
群衆が集まり、大騒ぎであった様子がよくわかる。

明治当時の新聞の文章がこのようなものであったことは
一つ驚きである。表現は難しいが、たぶんに文学的、
美文調といってもよいものでありながら、現場の情景が、
手に取るように伝わってくる。(講談のようでもあるか。)
声に出して読みたい日本語というのがあるが、
まさにそんな文章。

あまりに気に入ったので、皆さんの前で、
声を出して、朗読してしまった。

日本が明るい未来を夢見ていた頃の、時代の高揚のようなものであろう。


と、いうことで、つづきはまた明日。





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