断腸亭料理日記2009

サンバカーニバルと、六区・水口食堂

8月29日(土)午後

さて。

今日は、サンバカーニバル。

まあ、皆さん、ご存じであろう。
浅草サンバカーニバル、で、ある。

毎年、このあたり、夏休みの最後に開かれている。

この日記で、書いたことはなかった、
のではないかと思われる。
元浅草に住んでおり、むろん知らぬわけもなく、
見たこともなん度もある。

が、なぜか、うちの内儀(かみ)さんは見たことがなかった、
らしい。
サンバカーニバルは、毎年、東武の浅草駅、馬道通りから、
右折して、雷門通り、旧仁丹塔の交差点までで開かれている。

毎年、この日に、このあたりにくれば、否(いや)が応(おう)でも
サンバカーニバルには遭遇するわけで、私は、見ているのだが、
元浅草に引越してきて10年弱になるのに内儀さんが見たことがない、
と、いうのは意外である。

二週前、であったか、TV東京の「アド街ック天国」で、
サンバカーニバルに引っ掛けて、西浅草をやっていた。
これを視て、内儀さんは、今年は見物しよう、と、言い出した。

今年は、サンバカーニバルは第29回、らしい。
もう30年近くもやっていたのか、という感じである。

30年前といえば、私は高校生の頃。
私も思ったが、なんで浅草でサンバ、なの?
というのが、誰しも思ったことであろう。

江戸から、明治、大正、昭和と、浅草は東京でも屈指の
大盛り場であり、人も集まれば、文化、芸能、の最先端であった。

が、ご存じのように、昭和30年代が最後であろう、
映画の衰退、TVの勃興、都市としての東京の発展とともに、
盛り場は、新宿、渋谷など、西へ移る。そんなことで、段々に、
浅草は、遊びにくる人も減り、東京人からは
段々に、忘れられた街になっていった、、。

残念ではあるが、これが実際のところだと思われる。

それで、昭和の50年代、そんな浅草をなんとかもう一度、
盛り上げられないかと、浅草の商店街などでサンバカーニバルを始めた。
なんでもサンバがいい考えたのは、当時の台東区長と、
喜劇俳優、バンジュンこと、今は亡き、伴淳三郎さんであったらしい。

この、サンバカーニバルのホームページにも
「なぜ、浅草でサンバ?」ということは書かれているが
まあ、結局、盛り上がれば、なんでもよかった、
のではあろう。

浅草サンバカーニバルはそれでも、定着し、全国から
参加する人々も少なからずいる。
30年も続けば、大成功であろう。
なんにしても、人が集まってくれるのは、地元にとっては
よいこと、である。

そんなことで、私は、なん度も見ているので、
どっちでもよかったのだが、内儀さんが行こう、と
いうので、つき合うことにし、午後、自転車で、出る。

毎年のことだが、すごい人。
仁丹塔交差点あたりに、自転車を置いて、雷門通りの歩道を
吾妻橋方向に歩きながら、見る。


と、いっても、見物の人垣は歩道にあふれ、とても
見られるものではない。
この写真は、カメラを高くかかげ、カンでシャッターを
押している。


この観客はいったいどういう人なのかとも、思う。
皆が根っからの、サンバ好きな人々、とも思えぬが、、。


雷門前をすぎ、満員電車並みの人込みをかき分け、
なんとか、都営の浅草駅の入り口付近の路地まで
たどり着き、カフェで、一休み(ビール)。
汗だく、で、ある。

内儀さんも満足はしたよう。

なにか食べたいが、、。
こんな時である、どこがよかろうか。
そばで並木藪、で、あるとか、老舗、有名店は
避けたほうがよいであろう。

で、思い付いたのが、六区、WINS界隈。

あのあたりならば、競馬のお客で、サンバとは
無関係な週末風景が展開されているハズ。

例えば、水口食堂

六区の裏路地にある、いわゆる大衆食堂なのだが、
土日のお客は競馬狂の親爺連。

一応、サンバ行列のスタート地点、馬道、二天門あたりまで見て、
浅草寺境内を抜け、奥山から、WINS裏、煮込みやらの
呑みや通り。

ヨシカミにもほど近い、水口食堂に到着。

案の定、このあたり、外も、食堂の中も、
サンバカーニバルなど、どこ吹く風で、いつもの
土曜日が展開されている。

WINSの東側の通りは、南へ向かって、
ずらっと、半屋台、ともいうような、煮込みやらを
メインメニューにした呑みやが、昼間からにぎわっている。

これ、内儀さんが言い出したのだが、
先日の、モロッコ、マラケシュの世界無形遺産
ジャマエル・フナ広場の屋台と、同じではないか、と。

なるほど、その通り、で、ある。
あそこでも羊の煮込みを食べたが、おんなじ、で、ある。
モスクのかわりに、浅草寺があり、芸人は、さびれたとはいえ、
今でも演芸ホールもあり、ロック座、も、健在。
(最近もだいぶ話題になっていたっけ。また、この北も。
あるいは、ビューホテル界隈のお兄ぃさん達も、、。)

ジャマエル・フナ広場を、イカガワシイ、などと言ってはいけない。
どこあろう、地元、ここ、浅草も同じではないか。

はるか江戸、明治大正の頃から見れば、パワーは減り、
きれいになってはいるが、基本は変わらない。
いや、むしろ、変わらない方が、よい、のでは?ともいえまいか。
だから、マラケシュのジャマエル・フナ広場は、
ユネスコが認める世界遺産なのではないか?。

多少反社会的だったり、イカガワシかったり、アヤシかったり、
それが浅草の歴史であることは、間違いない。
それが、モロッコでも、浅草でも、庶民、いや人間の
歴史であり、それも“文化”であることは間違いない。
もっというと、イカガワシサ、や、アヤシサといったものは、
人間の本質を構成する一部、と、いってよいものかもしれない。

むろん、その功罪の議論は別途しなければいけない。
だが、それらが本当になくなってしまった時が、
浅草の本当の終わりなのかも、、。

そんな話を内儀さんとしつつ、水口食堂


エビスの生に、ポテトサラダ、マグロブツをつまむ。

食べ終わり、勘定をし、出る。

サンバの行列はまだ続いているが、
再び、仁丹塔交差点に戻り、自転車で、帰宅。




水口






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