断腸亭料理日記2009

鮨、考察 その3

さて。

今日は先週からの続き。

鮨についての考察。

鮨とはそもそも、なんであるか。
これについて考えている。

200年前、江戸東京で生まれた、鮨、と、いうもの。
現代において、世界、津津浦浦へ、広まっている。

私にとっては、東京に生まれ育ったものとして、
身近な食い物でもあり、御馳走でもあるし、
また、好物の一つ、で、ある。

やはり、その鮨が、なんであるか。
これは、はっきりさせるべきである、と、いう動機。

そして、最終的には、これから鮨はどうあるべきか。
私達、世界の最高峰の東京の鮨やの客は、未来に向かい、
鮨に対して、どう付き合うべきなのか。
これを考える責任が、私達には、あるように思うのである。

これは、前回まで見てきたように、決して誇張ではない、
はずである。日本発、であり、江戸東京発の食い物であり、
食文化である鮨について、東京人として誇りを持ってよいと思うし、
同時に、責任も持つべきであると。

たかが、鮨ごときに、と、思われる向きもあるかもしれぬ。
しかし、世界の魚マーケットの主導的立場にあるのは、
日本であり、築地である。そしてその頂点にあるのは、
鮨であり、東京の鮨やであること。この一事をとっても、
世界の魚マーケットに責任があろう。

と、まあ、志はそんなところ、なのだが、
そこまで、たどり着けるかどうかは、わからぬが、
一先ず、続きを考えてみたい。

前回配信分で、鮨、というものの、分解と定義を
試みてみた。そこで、
「鮨は本体として、普遍的にうまい、ものに
文化的な背景が加わったものであり、それも込みで、
うまい、のである」
と、一先ず、結論をしてみた。

これをベースにしよう。

まずは、鮨の歴史からみてみよう。
鮨、鮨、と簡単に書いてきたが、今まで書いてきたのは、
皆さんご存じの、ニギリを中心にした、
東京の、“江戸前鮨”、などといわれている、鮨についてである。

ちなみに、私は今、基本的に、スシに鮨の文字をあてている。
店名の場合は、その店が名乗っている字を使うようにしている。
スシは鮨以外にも、現代では、寿司の文字があてられることが
多いだろう。名古屋などでは、鮓、などという文字も
あてられることもあるが、これは、江戸東京などでも使われた
古い使われ方のようである。
私が鮨の文字を使うのは、特段の意味はない。
寿司、でもよいのが、明らかに、当て字で意味性も希薄なので、
まだ、鮨の方が、よいだろう、というくらいの理由である。

日本のスシそのものは、知っての通り、近江琵琶湖の
鮒ずしに代表される、米とともに魚を発酵させた、ナレズシが源流である。
そうした、ナレズシの食文化がベースにあり、押し寿司、
にぎり鮨なり、現代ある酢飯の鮨が生まれてきた。

また、にぎり鮨=“江戸前鮨”以外の鮨は、全国各地に存在する。

京都の鯖の棒鮨、バッテラなどの押し寿司、を含めた
大阪鮨と呼ばれるもの。
あるいは、北陸のますのすし、奈良の柿の葉鮨、
近いところだが、和歌山のめはり鮨、秋刀魚鮨、、
いろいろある。
これらの地方の鮨も、ナレズシとは異なり、
別に同じように酢飯を作り、具材と合わせる、
(あるいは、ちらしスシでは混ぜ込む)作り方をしている。

こうした地方に今でもある郷土の鮨の歴史については、
また、別の機会に考えるとして、東京以外にも、
“江戸前”式のにぎり鮨は広まっている。
まあ、世界に広まっているのだから、当然といえば、
当然なのかもしれない。

で、そのにぎり鮨=“江戸前鮨”発祥について、で、ある。

今、にぎり鮨の発祥は、文化文政期、華屋與兵衛なる人物がが両国で始めた、
などと広く一般にいわれている。

このあたり、Wikipediaの「江戸前寿司」および「寿司」に詳しく
書かれている。

『「妖術と いう身で握る 鮓の飯」『柳多留』(文政12年 1829年 作句は1827年)』

これが文献に現れる最初のにぎり鮨、で、あるという。

まず、にぎり鮨の前史として、この文化文政期以前、の江戸での
鮨は、やはり、押し寿司であったようである。
江戸時代も初期から、江戸の町でも酢飯を使った押し寿司は作られ、
これらを売る鮨やという業態は存在していたようである。

華屋與兵衛以外にも、発案者は諸説あるようだ。
例の柳橋美家古鮨のホームページには文化年間に
屋台でこの店の初代が始めた、と、書かれているが、
これが事実だとすると、華屋與兵衛よりも前になる。

史実として、誰が発案したのか、は、まあ、置いておくとして、
文政の頃には、一般化し、江戸市中はおろか、
上方、名古屋にもすぐに広まった、らしい。(Wikipedia江戸前寿司)
(また、この頃、巻き寿司、稲荷寿司、も既に現れていたよう。
特に、稲荷寿司は、落語に、売り声が残っているが、主として夜、
で、あろうか、「おいなぁ〜〜りさん」といいながら、売り歩いたようである。)

また、この頃、にぎり鮨は、それまでの多少時間のかかる、
押し寿司などに対して、早くできるので、握早漬、早スシ、
と、呼ばれたらしい。(同:江戸前寿司)

では、なぜ発祥が、江戸であったのか。

江戸っ子はせっかちだったから、押してしばらく時間がかかる
押し寿司ではなく、握るようになった、とか、まあ、
そんなこともよくいわれるが、このあたり、少し考えてみたい。

文化文政期は、江戸が日本の政治経済の中心になって、
既に、200年ほど経っている。

この時期の文化を日本史では、ご存じの通り、化政文化、と、いう。

江戸の文化を大きく分けると、元禄期と、この化政期に分かれる。
元禄期は江戸開府から、8〜90年で、まだまだ、戦国、安土桃山の風、
あるいは、上方の影響の濃い、時代であった。

これに対し、文化文政期は、江戸発の文化、と、いわれている。
毎度書いているが、十辺舎一九、山東京伝、蔦谷重三郎、写楽、北斎、
広重、蕪村、一茶、、、の、時期。
(江戸落語の成立もこの時期だろう。)

江戸が200年経ち、やっと名実ともに、この国の中心になり、
江戸らしい、江戸固有の文化を作ることができた。

歌舞伎、浮世絵、読本、滑稽本、俳諧、川柳、狂歌等々の各種書籍の出版その他、
江戸町人文化が花開いた時期、といういい方もできるだろう。

ついでだが、今のうなぎの蒲焼もこの頃、江戸で生まれた。

江戸という都市が落ち着き、根を生やし、成熟した時期と
いえるのだろう。
そういう時期に鮨が生まれた。

江戸町人(商人)の存在感が増した、というのは、太平の世が続き、
堅くいうと、貨幣経済、商品経済、消費社会の発達、と
いうことになる。(同時に、いわゆる米を基盤にした武士の
政治、封建体制が崩れていった、ということにもなる。)

江戸初期にはなかった、先の、お稲荷さん売り、もその一つだが、
様々な屋台や荷売りの食い物や、あるいは、店を構えた料理や、
八百善、落語にも登場する百川のような高級料亭も、
江戸の町に見られるようになった。

ちょっと脱線するが、その江戸屈指の料亭八百善に残っている話。
現代に劣らぬ、酔狂なグルメ文化がこの頃既にあった。
おもしろく、また、この考察の大切なポイントなので、書いておく。

ある日、お客が、お茶漬けが食いたい、と希望した、という。
このお客はなんと一日待たされ、一両二分請求されたという。
腹を立てた客が店主に聞くと
『玉川の上水、瓜と茄子のきりまぜ、玉露、越後の1粒より』
を使った。それでこんなに高いという。これを聞いて、
客は、納得して帰ったという。

まず、“玉川の上水”は、江戸は水が悪いので、
羽村の取水関であろうか、そこまで、早飛脚を飛ばして、
取りに行っていた、と。(この話、それ以外にも瓜やら、茄子やら、
お茶、米と、蘊蓄があるのだが、長くなるので、やめておく。)

茶漬け一杯に、一両二分を請求する方も請求する方だが、
払う方も払う方。

どうであろうか、このグルメ具合は。
今以上の酔狂さ加減であろう。

また、こうした食い物やで、終夜営業、いわゆる夜あかし、の
業態も現れたとみられている。

100万人と国内最大(いや、当時世界一の)人口を抱え、
忙しく、眠らない都市江戸。

B級から超A級まで、上から下までのグルメ、もあり。
ある面では、現代の東京とかわらない、ようにもみえる。

さらににぎり鮨が生まれた背景には、むろん、材料となる江戸前の魚、と
やはり、その頃、江戸で一般化していた、濃口しょうゆ、
と、いうものの存在も寄与していたのであろう。

あるいは、料理人の創意工夫を生む、調理技術の向上も
あったのだろうし、もちろん、逆に、それを受け入れるマーケット、
成熟した町人消費者の存在もあったということである。

こうした土壌があって、押し寿司から、
酢飯を握ってみようか、という、最初の鮨職人のアイデア、
創意工夫が生まれた。
そこから試行錯誤はあったのだろうが、
即席に握った鮨も(前回考察したように)、うまいものができた。

江戸で、うまいにぎり鮨が生まれたのは、
偶然半分、必然半分というところだろう。

ちょっと、話はずれる、のだが、押し寿司から、にぎり鮨、
という変化の中で、この押し寿司とにぎり鮨、どう違うのか、
どこがどううまいのか、について、一度、考えておきたい。

押し寿司とにぎり鮨。
先の、作るのに、押し寿司の方が時間がかかる、
という以外の違いは、なんであろうか。

食べる側からみると、押し寿司では、一種類の具材しか
食べられないが、にぎり鮨では、上の具材をかえるだけで、
一口サイズで、少しずつ、とっかえひっかえ、いろいろな
種類のものが食べられる、ということがある。

実は、これが最大の利点であり、また魅力、にもなっているのに
気が付かされる。
様々な、ねたを選べることから、押し寿司では得られない、
バラエティー性が生まれ、食べる側の楽しみ、エンターテイメント性、と
までいうのは、大袈裟かもしれぬが、は、大幅にアップしている。

前回の鮨の、分解・定義、の中に、もしかしたら、これは加えてもよいのでは
なかろうか。具材を上に載せた、一口のニギリという構成は、
様々な具材を握り分けられる、という食べ方を生み出した。
これはにぎり鮨が構造的に持っている魅力の一つであろう。

また、具材が変わることによって、見た目も変わり、これも
にぎり鮨の、楽しさの一つの要素になっているだろう。
小肌などの包丁目を入れて、ひねって握ったりする、
それぞれのねたによって、見た目に美しく魅せる技も、
こうしたにぎり鮨の構造から、生まれていよう。

また、押し寿司と比べ、大きさが一口サイズである、ということで、
むろん、ファストフード性、というのか、箸ではなく、手でつまんで、
食べられる、という、食べる側の簡便性、利便性も高まった。
これにより、屋台、立ち喰いなどへ、確実に食べる場面も広がった
のである。

前に書いた、アミノ酸が増える、ということ以上に、
一口に握るというにぎり鮨の構造は、これだけの魅力や、よいところが生まれた。
これはやはり、画期的な進歩であったといえよう。

少しまとめよう。

にぎり鮨の発祥が、江戸、化政期であったのは、半ば偶然、半ば必然。

商品経済の発達した江戸の町と、成熟した町人達の消費社会、
あるいは、既に生まれていた、グルメ社会、こういったもの
が背景であったということ。
また、最後にみたように、それ以前のスシと比べて、
うまさ、もさることながら、そのバラエティー性についても
各段の進歩を遂げていた。これは、その後のにぎり鮨の行方にも
大きく影響したと、考えられる。

今日のところはこんなところだろう。


だいぶ長くなった。

鮨の歴史、にぎり鮨の発生にまつわる考察。
まだ途中であるが、今日はここまで。
もうしばらくのおつき合いを、お願いする次第である。



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