断腸亭料理日記2010

池波正太郎と下町歩き5月・その2

秋葉原から、、末広町・花ぶさ

今日は昨日のつづき。

5月15日(土)、のNHKの『講座』。
湯島の聖堂、神田明神、天神下、旧講武所花街と歩いてきた。


講武稲荷から、メイドさんの呼び込みやらで

雑踏を極めるアキバの街を抜け、
駅北(このビル群は、クロスフィールドと、いうようである。)に
2006年にできたビル、UDX。
その玄関にある神田青果市場跡の記念プレートへ。

今の、秋葉原は、明治以降、いろんな顔を持ってきた。

まず、秋葉原の地名の由来。

江戸の頃のこのあたりは、東へいくと、御徒(おかち)の人々が住む、
御徒町であったわけだが、天神下から、中央通り(当時の御成街道)、
今の秋葉原駅あたりまでは、町人の住む町屋、で、あった。


明治になり、またまた、ここは火除地として、
今の駅の界隈が、空き地にさせられた。

そして、東京市によって、火除けの神様である、
秋葉様が勧請され、その秋葉神社は今の駅のあたりにあったという。
そこで、秋葉様の原っぱなので、秋葉原(あきばはら)と、
いわれるようになった。

その後、駅ができ、秋葉様は台東区の松が谷へ移転。
最初はアキバハラであったが、駅ができたときには、
駅名は、最初から、今のアキハバラであったという。
(そう。どうでもよいが、今、秋葉原、という町名は、
駅の東北側に存在し、台東区に入っている。今、電気街のある
秋葉原といわれているところの、ほとんどが
千代田区外神田であるのを考えると、ちと、妙な感じもする。)

さて。

神田川の南、神田多町を中心とする町には、江戸の頃から、
長年、青物市場、ヤッチャバがあった。
これが、震災後、まとめて、先の原っぱへ引っ越してきた。
これが神田市場。神田市場は、昭和の末までこの地にあった。

(昨日触れた、講武所花街の主なお客は、ヤッチャバの
アニイ達であったという。それで、一つの座敷に大人数で、
芸者は一人、なんという、他の花街とはちょっと違った様相も
呈していたようである。)

そのヤッチャバの記念が、先の、UDX前のプレートである。
今はほとんど、ヤッチャバの面影はない。
しかし、私の、例えば、高校の頃、で、あれば、まだ
ヤッチャバはあったはず。しかし、不思議に、あまり、記憶にない。
なぜであろうか。もっとも、秋葉原へ私がくる目的も、当時、ラジカセや、
オーデオなんぞを友人と見にきたわけで、市場であれば、
人がいる時間は朝であろうし、あまり目にも入らなかった、
のかもしれない。

そして、今ではあまりピンとこないが、ヤッチャバとも
多少関わり合いはあるが、秋葉原にはもう一つの顔があった。

中央通り沿いに、住友不動産の大きなタワー、
(ベルサール秋葉原というらしいが)が、最近建設された。

ここは、以前なんであったか、お分かりの方はおられようか。
ここには、日通、日本通運の本社ビルがあった。
なぜ、こんなところに?、なのであるが、これが
秋葉原の以前のもう一つの顔。

秋葉原駅の開業は1890年(明治23 年)。
当時は、貨物駅としての開業であった。
東北方面からの貨物は上野駅を越えて、この
秋葉原貨物駅で、降ろされ、都内各地に運ばれた。

この当時の東京はまだ、水運が残っており、
神田川から駅のすぐそばまで、掘割が引かれ、船溜まりが
設けられていたのである。そして、小舟に積み替え
都心各所へ運ばれていたのである。
(駅の南に、秋葉原公園という小さな公園があるが、
これがその掘割の跡、で、ある。よく見ると周囲から
一段下がっており、その境目には石垣が残っている。)

そんなことで、秋葉原は、明治、大正、昭和、と、
都心の物流の拠点の顔があり、日通の本社があった
というのも頷ける話、ではある。

さて。

電気街になったのは、戦後。
そもそもは、やはり、闇市の延長のようである。
当時は真空管など、ラジオの部品を売る露店が集まってきたのが
始まりという。
(なぜ、ラジオの部品がここだったのか、は、諸説あるようだが、
はっきりしたことは、わからない。)

そして、ご存知のような歴史を取り、今の、メイド服の
お嬢さん達が、客引きをする街に、AKB48の本拠地に、、
なっていったのである。

こう見てくると、秋葉原というところ、なかなか、
ドラマチックというのか、大きな変化を遂げてきたところ、
と、いえそうである。

本来であれば、神田、下谷、の範囲で、
浅草、上野にも遠くない。
そういう意味では、下町のはずなのであるが、
ここだけ、別世界。独立国のよう、、。
考えていれば、不思議なところ、である。

さてさて、そんなことで、UDXから秋葉原を抜け、
ここからは、花ぶさまで、まっすぐ。

日陰に入ると涼しいのだが、やはり、日が出ているので
日なたを歩いていると、汗ばむくらいである。
信号でとまると、持ってきた、扇子でパタパタ。

末広町の花ぶさ到着。
思いがけず、時間が押してしまい、
予定をしていた13時を少し過ぎてしまった。

格子を開け、板場の若主人にご挨拶をし、
皆さんとともに、三階へあがる。

この建物は、昭和39年の開業当時から改装はしているが、
基本はそのままのよう。
階段は、黒光りがしている木のもの、で、ある。

25人が収容できるように細長くした座敷、
で、ある。

この座敷だけではないが、廊下だったり、いたるところに、
池波先生の書かれた(おそらく干支の)絵が飾られている。

めいめい、席についていただき、
頼んでおいたのは、池波先生、命名の千代田膳。
これは、前回、下見にきた時にも頼んだもの。

一階の、階段下には、先生直筆の千代田膳命名の
由来が書かれた紙が、額に入れられ、掲げられてもいる。
(達筆で、読めない、、。)

意外に、歩いた。
頼まれる方は、ビールなど頼まれ、まずは一息。


最初は、酢のもの。


見た目には、わかめ、の、ようだが、
金時草という加賀野菜だそう。

少し、ぬめり、が、あり、多少のシャキシャキ感がある。

お造り。


左、めじまぐろ。
右下、白海老。その上に、まこがれい、しまあじ。

ここは、ほんとうに、刺身がうまい。
メジ、も、うまいが、白海老、しまあじが、秀逸。

白海老はとろけるよう。
しまあじは、あの、独特の香りと、ちょっとコリっとした食感。
そして、上品な脂が、ある。

吸い物。


これは、見た通り、はも。
赤いのは梅肉、で、あろうか。
ほんのちょっとなので、味にはあまり影響はないが、
目には鮮やか。
青味は、ちょっと小さいが、瓜、で、あろうか。

と、だいぶ長くなった。
花ぶさの千代田膳、途中だが、つづきはまた明日。



花ぶさ
東京都千代田区外神田6-15-5
03-3832-5387





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