断腸亭料理日記2011

池波正太郎と下町歩き1月 その6



引き続きいて『講座』の1月。



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江戸の地図


神田。

中央通り沿い、浅田飴のビル。
啓文堂書店の手前の路地を右に入る。

入ると、小さな医薬品の卸の店がちらほらと見える。
前回書いたように、このあたりは、日本橋本町から
続いているのだが、医薬品関連の会社が集まって
いる区域の周辺部分にあたる。

今はちらほら、だが、以前はもっとあったようである。

二本目路地を左。
すると、左側、大きな新しいビルがある。

これは「徳力本店」ビル。

「徳力本店」という会社。

ここは、神田鍛冶町。

最初に書いた、江戸初期、鍛冶屋が集まっていた町だが、
そこに起源があるのがこの「徳力本店」。

1727年(享保12年)、幕府の金銀改鋳を請け負い、
それまでの両替商から、地金商として創業。
以来現在まで、貴金属地金販売、精製加工、
宝飾品製造等を行っている。

江戸の頃は、中央通りの表通り側に店があったようである。

さて。

ここから、神田お玉が池に向かう。

神田駅北口から岩本町、大和橋の交差点へいっている、
広い、一方通行の通り。
これを右に曲がり、真っ直ぐ。

しばらくいくと、右側にフジパンの東京本部がある。
フジパンの本社は、名古屋だが、そういえば、このすぐそば、
岩本町の靖国通り沿いには、関東地方地盤の製パン会社、ヤマザキパンの
本社がある。

昭和通りに突き当たるが、これを渡る。

渡って、一本目の路地を右。

しばらく行くと、左側に、路地のような、
ほんの小さな公園がある。

これがお玉が池公園。
ひょうたん型の以前は池であったのか、跡のようなものがある。

公園は突っ切って、突き当りを右に折れ、
さらに路地に出るが、これを左。

すると、左側にあるのが、お玉稲荷。
お稲荷さんの赤い幟も立っているが、
これもちっちゃなお稲荷さん。

・お玉稲荷
この界隈の別名、お玉が池。
江戸初期この付近に、池があったという。

『その昔、桜ヶ池といい、不忍池などよりもはるかに広く、
水いよいよ清く、柳桜をこきまぜて、はるか向こうに千代田の城が見えた。
池のほとりに桜のもとに茶店があり、そこに絶世の美女がいた。
名をお玉という。そこを通る一人として彼女に懸想せざるものなく、
ついに二人の男の争うところとなって、悩んだお玉は池に身を投げ、
むなしくなった。』(「神田を歩く」森まゆみ)という伝説があるよう。

この回の初めに書いたが、そもそも、家康が江戸の町を
建設する前は、この神田周辺は、平川、江戸川(神田川)や
小石川が江戸湾に注ぐ前の、氾濫地であった、と書いた。

不忍池よりも大きい、と、いうと、そうとうデカいが
そんな池もあった、のであろう。

不忍池にも伝説はあるが、池や沼には、この類の話は、
付き物、ではある。

お玉稲荷から、表の大通りに出る。

これを右。
路地一本を越えて、次の路地の角にあるビル。

この脇に「お玉が池種痘所跡」という碑がある。

・お玉が池種痘所跡
1858年(安政5年)、幕府蘭方医、大槻俊斎によって種痘所が設立された。
東大医学部の前身とされる。
当初、勘定奉行の川路聖謨(かわじとしあきら)の屋敷にあった。

先に、この界隈、神田お玉が池は、学者儒者、戯作者その他、
文化、芸術関連の人々が多く住んでいた、ということを書いたが、
その例、と、いってもいいかもしれない。

ここから、Uターン。

岩本町二丁目の交差点も越えて、靖国通りまで出る。

靖国通りの向こう側、右、には、
ヤマザキパンの本社ビル。

そうそう。
先ほどの、種痘所跡、あたりも、そうであったが、
この界隈、衣料関連の問屋さんやらが、ちらほら、見える。
この岩本町あたりから、東側、中心は馬喰横山、さらに、
東日本橋、界隈は、衣料関連の町、で、ある。

これは、江戸の頃まで、さかのぼる。

柳原の土手の古着屋、なんというのは、
池波作品にも、あるいは、落語などにもよく出てくるので、
ご存知の方もあるかもしれない。

・岩本町の古着市場
江戸前期には古着屋は、紺屋町、鎌倉河岸などにも
分散していたが元文年中(1740年前後、吉宗時代)
神田川南河岸の柳原土手に古着屋が許され、
土手の7割が床店(とこみせ、仮設店舗)の古着屋であった。
(柳原ものといって、イカモノ、の代名詞でもあった。)
明治以降は、柳原の隣にあたる岩本町にも広がり、
この界隈の現代の繊維・衣料関連の商店につながっている。

靖国通りを左。
すぐに、昭和通りの交差点。
これも西側に渡る。

と、斜め左に入っている、狭い通りがある。
江戸の地図を見ていただければわかるが、昭和通りも
むろんだが、靖国通りも江戸の頃には、なかった。

この狭い通りが、江戸の頃の町割り。
そして、この通りは、一八(いっぱち)通りという。
一八はこの先、多町にある一八稲荷からきている。

この一八通りの入口、入って、すぐ左に、小学校の跡地がある。
これは元千桜小学校。

ここに、例の千葉周作の玄武館跡、と、
東条一堂、遥池塾跡の二つの碑がある。

小学校の正門であったのであろう、これは今、
門はあるのだが、開けて入ることはできる。

・千葉周作、玄武館跡
北辰一刀流を唱えた千葉周作が開いた道場。
当初は、1822年(文政5年)秋、日本橋品川町に開かれ、
当地、お玉が池へ移転したという。門人は山岡鉄舟、清川八郎(次項)、
新撰組山南敬助他、龍馬も通ったともいう。

・東条一堂、遥池塾跡
儒者。上総の人。家は代々豪農で、父は医術に長じていた。
16歳のとき京に上り、のち江戸に出て学問を積む。
1800年(寛政12年)頃弘前で職を得たものの江戸に戻り、
やがて神田お玉ケ池に塾を開く。
門人では新撰組の前身である浪士組の幹部清川八郎が有名。

真っ直ぐ行って、JRのガードを二つすぎる。
二つ目は中央線で、ここから、カーブをしているが
赤いレンガのアーチ。

再び、中央通りまで戻ってきた。


と、いうことで、また明日。






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