断腸亭料理日記2011

池波正太郎と下町歩き1月 その5

さて。

まだまだ、引き続き『講座』の1月。




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江戸の地図


昨日は、神田鍛冶町、神田駅南口そばの、おでんやの、
尾張屋の、細い路地を抜けると、中央通り。

そうそう。

神田鍛冶町で、思い出したが、早口言葉。
「神田鍛冶町角の乾物屋の勘兵衛さんから勝栗買ったら
かちかち噛んでも堅くて噛めない、、」
こんなのがあったが、皆さんご存知であろうか。

むろん、この神田鍛冶町は、ここのことである。

ともあれ。

中央通りを右に曲がる。
と、すぐにあるのが、山梨中央銀行。

この銀行の建物も古そうで、千代田区の町並み保存の
建築に指定されているようである。
が、ここは、ズバリ、今の銀座、浅草にある松屋デパートが
呉服店として開業した、創業の地、でもある。

この信号(今川橋交差点)を渡ると、細い路地がある。
ここに碑、も、あるが、この路地の場所が、今川橋跡。
そして、この路地自身が、神田八丁堀の跡。

昔は、もっと広い堀であったのかもしれぬが、
今の跡とみられる、路地は2〜3mであろうか、
随分と狭い。

またまた余談だが、前にも書いてはいるが、
あんこの入った、丸い、小麦粉を焼いた今川焼。
あれは、この今川橋の袂で焼いていたものなので、
今川焼になった、ということである。

このあたりの歩道から、中央通りの先を見ると、
日本橋も見える。
(実際に見えるのは、上を走る、首都高だが。)

そうなのである。
神田と日本橋は、隣。
この八丁堀、今川橋を渡ると、宝町で、
日本橋までは、歩いてもすぐ、なのである。

これだけ近いのに、町として、まるっきり色合いが
違う。

むろんこれは、先に述べてきた、江戸初期からの、
神田、日本橋の歴史の違いによるものだが、
これが東京という街の、おもしろいところ、である。

道一本、堀一本。
ここでいえば、神田八丁堀一本である。

この八丁堀跡の路地で、今も、千代田区から、
中央区に変わる。

次の交差点、室町一丁目を、
今度は、向こう側へ渡り、左、
神田駅方向に戻る。

すぐに、右側。
路地を入ると、古い洋風の比較的大きなビルがある。

これは、丸石ビル、という。

ちょいと、説明を書き出す。

繊細な装飾の施された半円アーチ、ライオンやフクロウの彫刻など、
近代ロマネスク様式の美しさは見る価値大。
昭和6年築の、戦災を免れた貴重なオフィスビル。
設計は日本初の超高層ビル・霞が関ビルの設計者山下寿郎。
当初は、1、2階を太洋商会および姉妹会社の丸石商会
(後の丸石自転車)と太洋自動車(米国GMの販売代理店)が使用し、
3階以上を賃貸オフィスとして使用するために設計された。
竣工当初自動車のショールームであった1階と、同じくレコード会社
日本ビクターの録音スタジオが置かれていた6階部分を
通常のテナント用とした。国登録有形文化財。

だ、そうな。

今、一階は、ペルシャ絨毯のお店になっている。

このビルの前だけ、ヨーロッパの町角、といってもよいような
それこそ、ロケにでもできそうな雰囲気、で、ある。

再び、中央通りまで戻り、神田駅方向。
今川橋交差点を渡って、ビル三つ、四つ。
キンコーズが1階にあるビル。
ここに、「謄写版発祥の地」と書かれた、プレートが
壁に貼ってある。

「謄写版発祥の地」
1894年(明治27年)創業者堀井新次郎氏が特許を取り
「堀井謄写堂」をこの地に開いた。いわゆるガリ版の元祖。

少し、職人の町、らしくなってきた。

次の路地の先のビル。
1階が啓文堂書店。

そのビルの屋上を見上げる。
と、屋上に看板が見える。

看板は「シュガーカット」。
これ、浅田飴の本社が入っているビルである。
(シュガーカットは浅田飴の製品である。)

浅田飴本社

浅田飴の歴史。
少しおもしろいので、書き出してみる。

1887年(明治20年) この近く、神田区富山町で、
宮中侍医浅田宗伯処方の「御薬さらし水飴」を創製発売。
水飴状の薬で、“良薬にして口に甘し”のキャッチフレーズが有名。
1889年(明治22) 神田区鍋町に店舗を設ける。
「御薬さらし水飴」を「浅田飴」と改称。1897年(明治30年)
神田区鍛冶町(現所在地)に店舗および工場を移転。
「咳声喉に浅田飴」。

そう。実は、このあたり、薬関連の店や会社が
集まっているのである。

実際のところ、江戸の頃から薬は日本橋本町、
と、決まっており生薬問屋が集まっていた。
これは今でも継続しており、国内製薬会社の
名だたるところの東京本社ビルが、日本橋本町には
集まっている。

で、この神田鍛冶町付近は、先にも書いたように、
その日本橋本町の隣。
このため、このあたりまで、薬関係の店や会社が、
あるのである。

そして、これも、調べていて、ちょいと、
おもしろかったので、書いておく。

清水建設創業の地
創業は1804年(享和4年)。越中富山の大工であった
初代清水喜助が神田鍛冶町、絵草子屋の裏店で開業。
やがて清水屋の屋号で新石町の表通りに店を構え、
1838年(天保9年)には江戸城西の丸造営に参加、
幕府御用仕事を受けるとともに井伊家御用達となる。

1859年(安政5年)の開港にあわせて横浜にも店を出し、
外国奉行所など多くの幕府御用の仕事を請け負うと同時に、
先進の洋風建築技術を習得した。
明治に入り、二代喜助は東京でわが国初の本格的洋風ホテル
「築地ホテル館」をはじめ、第一国立銀行など多くの
擬洋風建築を設計施工で手掛けた。その後、清水組となり、
戦後、現在の清水建設となっている。
(鍛冶町に、碑などは、ない、と、思われる。)

清水建設の発祥が、神田鍛冶町、絵草子屋の裏店、
というのは、いかにも、よいではないか。

今の、大建設会社も、江戸の町の裏店の大工さんから、
始まっていたのか、で、ある。



と、いったところで、つづきは

また来週。

(今回、長くなりそう、、)







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