断腸亭料理日記2015

五反田考 その5


引き続き、五反田考。

いや、今日は東京の花街考のようなものにもなるが、
もう少しお付き合いを願いたい。

五反田花街が二業地指定認可されたのが、大正10年(1921年)であった。

ここでもう一度、時代背景をおさらいしてみよう。

第一次大戦がその前の大正3年(1914年)から
大正7年(1918年)の4年間。

第一次大戦というのは基本、戦場は欧州であったため
我国などは日英同盟などによって参戦している形を取っていたが
アジアにあってほぼ戦うこともなく、物資供給の側にまわっていた。
それで一気に工業化が進んだということになり、空前の好景気に沸いて
いたわけである。(今は大正バブルといわれてもいるようである。)

東京市中心部では、会社務めの月給取りが現われ、女性でも
職業婦人という言葉も登場するようになっている。
戦前の我が国の工業化、近代化の端緒であろう。

それで例えば、モボモガ(モダンボーイ、モダンガール)の登場。
明治の文明開化時代の欧風化からさらに進んで、一般にも日常洋服を
着てかつ、洋風のお洒落をたのしむ。

またモボというと、山高帽にロイド眼鏡で喜劇役者榎本健一などの
名前が出てくるが、いわゆるエノケンロッパの浅草オペラの全盛期もこの頃。
(そういえば、荷風先生もロイド眼鏡を掛けていたっけ。)

銀座などに女の子がいるカフェーが生まれにぎわう。

荷風先生の小説を読むと、芸者からカフェーの女給に鞍替えする
なんという女の子が出てくるが、まあ、同じような女性が
芸者と女給を行ったりきたりしていたのかもしれない。
(このあたり、バブルっぽいかもしれぬ。)

社会の風潮としては大正デモクラシーなんという言葉も生まれ、
リベラルな社会風潮の高まりもあった。

ある意味、戦前の日本のよい時代、と、いってよい頃といっても
よいのかもしれない。

東京郊外の五反田・大崎界隈というのはこの波の中で、
大小の工場と住宅がやはり瞬く間に建ち、密集していく。

こうした工場に勤める工員、いわばブルカラーのお父っつぁん、
お兄ちゃん達が爆発的に増えた。
これとまったく同じ動きで、五反田花街ができているわけである。
むろん、五反田花街のお客は彼らである。

こうみてくると、なんとなくこの頃の東京が
想像できてきたではないか。

都心部のカファーで遊ぶモボモガと工員の街の花街。
ホワイトカラーとブルカラー。
対照的である。
江戸時代の武士と百姓町人から、クラスとまではいえぬかもしれぬが、
こういう区分けというのか、棲み分けといったようなものが
東京に現れた時代といってよいのであろう。

一方で、ちょっと余談めくが、東京の花街史のようなものを考えてしまう。

つまりこの時期はある意味、東京の花街の転換期であった
のではなかろうか、ということなのである。

銀座に登場したモボモガ。この時代を境に、例えば明治の元勲も通って
栄えた都心部最高の花街である新橋などは、同じ銀座で商売敵の
カフェーなどができて影響はなかったのであろうか。

この後、新橋なども戦争があって数を減らすが復興し、実は1972年に
料亭・待合組合員数が90軒となり、大正期の300軒(前出・加藤政洋)
には及ばないが数を伸ばしていた。
だが、むろん、その名を馳せた新橋花柳界も高級クラブに代わり
今は限られたものになっているのであろう。

この他にも戦後比較的長くにぎわったところは神楽坂、葭町(人形町)
などあるのだが、戦後、昭和40年代にもう一度盛り返したのはちょっと
不思議ではある。(モボモガの時代があったのに先祖返りしている
といえるのか。私の課題にさせていただく。)

ただやはり、東京花街の歴史を通してみると、戦争による
途絶はあるが、近代化、工業化が始まったこの大正期から既に
運命付けられていたのではないかと思われる。まあ、日本人が
着物を着なくなれば、芸者というお座敷遊びもなくなっていくのは
必然ではあったのであろう。

ちょっと論点がずれるのだが、私は江戸東京にもともと純粋な芸者遊び
なるものがどれだけあったのかと、思うのである。

もう少しいうと、身体を売らない芸本位の芸者という
もののことである。
裏の事情は別にして例えば京都などではまあ、そういうことも
あったのかもしれぬ。しかし、こと江戸東京においては
私は本来疑問を持っているわけである。

江戸落語にはほとんど芸者にしても芸者遊びにしても出てこない。
これは大きな証拠であろうと思っているのである。

吉原の芸者は、例外として語られるが、本業の花魁がいるので
ルールとして身体は売らない。芸本位といわれた柳橋は
吉原への中継地点として、軽く一杯やって舟で吉原に乗り込む場所として
描かれる。(「お若伊之助」)
これは江戸から明治の(お金のある人の)風俗であろうと
推測するが、遊びの中心はあくまで、吉原である。

また落語「百川」では日本橋魚河岸の若い者達が料理屋で
祭の相談をするがここに呼ぶのは芸者ではなく、常磐津の師匠。

ただ、まるっきり森繁の「社長シリーズ」に出てくる
芸者さんのいる宴会風景はなかったのかといえば、それなりには
あった。明治のことを知っている、神田“講武所”の芸者さんの
聞き書きを読んだことがある。(神田“講武所”というのは
神田明神下に幕末から明治にあった小さな花街である。)
神田のやっちゃ場(青果市場)の寄り合い、年会は近所なので
“講武所”の料理屋でやることが多く、やっちゃ場のお兄さん達の
席にはよく出た、と書かれている。
(戦後昭和40年代の再度の盛り上がりは文字通り「社長シリーズ」
で描かれているのかもしれぬ。)

ただ、池波先生も戦争前、十代の頃の遊びの拠点は芸者ではなく、
吉原であった。

荷風先生は新橋も柳橋も書いているが、そう大きな違いはなく
馴染みになって、愛人のような関係になり、ここでお金も出して、、
という(芸本位ではない?)遊び方をしている。

明確な区分けはむろん難しかろう。
荷風先生によれば、東京一高級な新橋でも昨日書いたような
“特別祝儀”にあたるものの相場はあり、お金さえ出さば、
交渉次第ではあったようであり、女の子により、お客により、
であったのだと思われる。

さて、五反田花街。

五反田、おそらく同時期に生まれた根岸(鶯谷)なども
そうかもしれぬが、森繁の映画に出てくる宴会シーンの芸者さん、
歌を唄いお酌をする芸者さん、的な役割だけでなく、もう一つの役割で
戦後まで続いていた、のかもしれない。推測ではあるが。



そんなことで、途中多少横道にそれたが、五反田のこと、
花街を中心に振り返ってきた。

大正時代から戦争をはさんで50年程度、五反田の駅前にあった
五反田花街。なくなってからも既に3〜40年は経っていようが
それでも紛れもなく今もこの街はこの歴史抜きには
考えられなかろう。

この文章を読んでいただいた方の中で、
五反田の街をご存知のない方も少なくないかもしれぬ。
しかし、東京の街には似たような歴史を持ったところは数多い。

これがいったいなんだったのか。
皆さんはどう思われようか。
結論が今、私にはあるわけではない。
もう少し、五反田の街を歩き、考え、
つづきを書いてみたい。






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